下
☆思いついた舞台設定を嵐のように出し合うスレ☆
2:★ぐっこ 2002/01/27(日) 00:20 ええと、正式採用するといったまま更新が滞ってる設定ですが…。 岡本様の作品より、ここに抜粋しておきますね〜。 ………… …… 興味深いシステムの1つとしては、貨幣や紙幣を象った階級章とその評価に密接に関係する課外点数制度があげられる。 階級章はそれを所有する学生の学業以外の課外活動、すなわち生徒会運営、事務、部、サークル活動へ参加権を認定するものである。各学生は、後漢市の学制に編入されると個人登録を済ませるが、その際に個人情報の課外点数欄に"¥ 1"と記され、学生証と1円玉階級章を支給される。 ※当時のHPで自分の値段算定が流行していたことと無縁では無かったらしい。 学生の課外点数は、学業でなく課外活動での活躍に対する評価点であることが重要である。課外活動での活躍が認められるとその活躍乃至は不始末に応じて金額が上下する。マイナス評価でも基本的に1円以下には下がらなかった。 ※驚くことに、野外模擬店(かなりの学生の食事事情を賄っていた)や完全に個人の趣味ではないかと思われる同人活動も評価対象になっていたため、折角貯金した分を投資した大博打に失敗して一円に逆戻り、という学生が多数存在したらしい。
3:★ぐっこ 2002/01/27(日) 00:21 課外点数がある一定の額(具体的には、現行貨幣や紙幣の額)に達すると、その額面に対応する階級章への交換が可能になる。交換の有無は該当者の任意である。この額面が重要で、課外活動の中でも生徒会運営、各校区長や棟長、各種委員といった後漢市全体の運営に関わる一種公的な地位にはある一定以上の額面でないと着くことは許可されていなかった。階級章は"貨幣章"、"紙幣章"と区分され、重要な地位の条件は例外なく"(要求額に達する)紙幣章所持者に限る"であった。 ※課外点数と所持階級章の関係は、原則的には"課外点数 ≧ 所持階級章"であったが、到達寸前だと"見切り発進"されるのが通例であった。生徒会の実権を握った権門の性格によっては大幅に不等号が逆転することも稀ではなかった。 事実関係は調査中であるが、劉宏が蒼天会会長の時期には、劉宏の小遣いとして彼女の預金口座に振り込んだ金額の百分の一の階級章が、振込み主に発送されたとの話がある。 権門との癒着を嫌い、階級章交換を固辞し続けた逆の例も存在する。一例は劉宏と同時期の著名活動家の何 である。彼女はいわゆる"清流派"の著名人と対等以上の関係にあったようだが最後まで一円玉章を着用し続けた。 紙幣章を獲得することは高校3年間では非常に困難であり(卒業時の平均評価点数は数00円)、勢い幼稚園、小学校からの編入生が紙幣章獲得者には多い。
4:★ぐっこ 2002/01/27(日) 00:21 原則として、評価点数は1円以下で無いとしたが、不祥事を起こして階級章を学園当局に剥奪されたり、一身上の理由で返却する場合には、登録抹消=0円として記録される。 ※学園当局に剥奪されることを通称、"強制返済"という。 対応して、返却は"自主返済"という。 階級章を所持しない評価0円の者は学生としての在籍は認められるが課外活動への参加は厳禁となる。評価0円の者が課外活動に参加した場合の罰則は退学処分であるが、幸いなことに適用者は存在しない。 ※評価0円の者を通称、"文無し"という。 学業と課外活動のウェイト比が見事なまでに(異常とも言うが)逆転している後漢市において、"文無し"は事実上"死"に等しい。 不正規所属部員の吹き溜まりとして知られる帰宅部連合においても例外ではないので、彼らも活動の際は後生大事に所持していた。 が、現実に"文無し"になった者は何らかの事情で課外活動への参加に興味をなくしたものがほとんどである。 このことが、強制退学処分者が存在しない理由である。 一身上の都合として、多いものは高3時の受験対策である。 蒼天会会長の交代は、原則として前任者が階級章を返却した上で、後任者に正式に当該階級章を譲渡することになっている。 ※蒼天会で、前任者が"自主返済"し後任に席を譲ることは"禅譲"と言われるが、後漢市史上で名実ともに"禅譲"と見做せる交代劇は少ない。ていうかほとんど無い。 同内容として、政敵に圧力を加えて"自主返済"願うのは彼の十常侍のお家芸として恐れられていた。 なお、ネガティブにとられがちな"返済"行為だが、部やサークル活動において有力部員が現役引退で"自主返済"するのはひとつの花道ですらあった。
5:★ぐっこ 2002/01/27(日) 00:22 階級章についてのシステムが、これで明らかになりました! なんと、発案者が初めて知る事実!(^-^; 岡本様大感謝! で、次から「戦死」についてです…。
6:★ぐっこ 2002/01/27(日) 00:22 黄巾事件を引き金とする群雄割拠の時代に、各勢力間で頻繁に行われた勢力拡大の方法が、階級章の強制剥奪権をかけての試合もしくは決闘であった。類似行為は後漢市において市史ができる以前から存在し、由来は不明なもののこの行為は"飛ばし"と称せられていた。 ※トンナンシャーペイと4人で卓を囲んで行う遊戯で残金が0円になることに由来するという説が濃厚である。さすがに"ハコ"ではオヤジすぎたらしい。 この"飛ばし"行為は関係者数の規模、試合の種目(体育会系や文化系、またそれ以外)に関係なく行われ、勝利者には状況に応じた課外得点が加算されたため、幾多の英雄を生み出した。課外得点は"飛ばさ"れる相手の金額が上昇するにつれ比例して上昇したが、双方の了解のない"飛ばし"行為はタブー視され、該当者は数字には表れないものの社会的に敬遠されたため、思ったように評価の上がらない者もいた。 なお、"飛ばさ"れたものの現役復帰はほぼ絶望であった。 ※英雄の一人呂布は"飛将軍"と称せられたが、これは菫卓の手先として数多くの相手を飛ばし続けたことからついた悪名である。菫卓自身も最後には彼女に飛ばされている。同様の称号を持つものに李広がいるが、彼女の場合は名誉称号である。双方の了解の有無が大きく明暗を分けている。 呂布一党は、正規部員でなかったが、呂布自身を筆頭に、体育会系の有力選手が多かったため、飛ばされることが無かったのはおろか学外正式の試合で優秀な成績をあげたことによる正当な貯金もあり、なかなか"強制返済"とはならなかった。これが、長きに亘る混乱に拍車をかけることになった。 劉備三姉妹の一人、張飛の有名な啖呵に"張飛の飛は飛ばすの飛だぜ!! かかって来い!"というのがある。 以下は事実確認中であるが、関羽との初対面時にもこの科白とともに決闘を挑んだが、本人が逆に飛ばされかかったことが後々の力関係に影響を及ぼしているらしい。このときの決闘を預かったのが通りがかった劉備というのが、有名な"ピーチガーデンの誓"に先立つ逸話である。
7:★ぐっこ 2002/01/27(日) 00:22 「蒼天通信」のバックナンバーによると、長湖部初代部長孫堅は黄巾事件制圧活動に参加した際、"剥奪に成功した階級章に応じた評価点数を、その都度該当者に加算せよ。"とそつのない交渉をしたらしい。 黄巾党は"貨幣章"所持者のみで構成されていたため(首魁の張角ですら中央委員への参画に失敗した5百円玉章所持者あがり)、塵も積もれば山になるとはいえ、小額点数の加算は煩雑であった。 担当官はこの"あきんど"じみた行為を敬遠していたらしいが、当時の実状として、この手の制圧活動への評価点数は活動終了時に該当者の階級章に応じた点数がまとまって与えられていたため、上に厚く下に薄い活動内容にまったく関係ないものであり、まだ階級の低い(当時、孫堅ですら500円玉章)孫堅一党にとっては承服しかねるものであった。なお、曹操は既に千円札章所持者であった。 孫堅は、"敵の上級指揮官には、一対一の正規のバトル以外では剥奪が不可能な剛の者もいる。指揮官を倒さずに切り崩すことは不可能"と、主張を認めさせ、結果として長湖部部員全体の評価点数の底上げに成功。これが、後々の孫堅、孫策の"部長2代連続の不祥事による階級章半強制返済"という後漢市史でも未曾有の危機を乗り越える布石となった。 帰宅部連合末期の重鎮、廖化は荊州校区陥落事件において"飛ばされた"ことにして退路を開くことに成功、戦線復帰した稀な例として後漢市史に残る。 似た例で、魏の名将張コウは、"3回は飛んでいるのでは?"と真しやかに言われていた。もっとも3回目が命とりだったが…。
8:★ぐっこ 2002/01/27(日) 00:23 ………… …… って! ほとんど全文掲載やん!(;^_^A 重ね重ね岡本様、ありがとうございまする〜〜m(__)m 上の設定をふまえた上で、陳寿タンはこう締めくくってます。 「…上記のように階級章の取得や剥奪は、該当学生の活動に絶大な影響を与えるものである。溢れる混乱と共に後漢市史上稀に見る活力に満ちた彼の時代を築いた基盤は、まさにこの制度にあったといって過言ではないであろう」 うーん完璧!
9:岡本 2002/01/27(日) 00:46 大幅にずれ込んだ昼休みに書き込んでおります。岡本です。 昨晩、物書きの参考にしようと学三年表に合わせて正史の年表を書いてみました。大体、1月〜1年で換算し、夏休みは時間経過も早いでしょうが、宿題消化も考えて2年、冬休みを1年と換算しました。調整目安は、菫卓暗殺の192年を1年次の冬休みに、官渡決戦(200年)と倉亭の戦い(例の十面埋伏;201年)を2年次の夏休み、劉備死去(223年)を3年次の3月としました。ぐっこ様も似たような目安で年表を作られたかと思います。確かに、変に濃い年と平穏な年が存在しますので、盛り上がりに忠実な演義とは時間の流れる尺度が異なるとは思っていましたが、まさかこれほどとは...。以下、完成後の私の反応をそのまま書きます。 孫堅引退は一年次の12月 →「早すぎるな〜。劉表戦はやはり、まさかの敗戦か。」 孫策の活動期間は1年次の冬休みから2年次夏休み前半 →「おい、短命とは思っていたけどまさか8カ月かよ。しかも本人は高1の夏休みで引退か。きっついな〜。」 赤壁の戦いは2年次の2月(ぐっこさんの年表では3年次の夏休み) →「おいおい、1月よりましとはいえ、落ちたら風邪引くぞ。たしかにライフジャケット着用で落ちたら戦死扱いになるわな。長湖部が水泳班使えるかと思ったけどこれは無理だろう。あ、でも曹操の深みで泳げない弱点はカバーされるか。実際の赤壁も冬場だったしな。そういえば黄蓋禁断のトイレねたも使えるか。」 合肥戦役(215年)は、3年次の夏休み後半 →「まあ、これは比較的適切か。でも騎馬戦をやる季節じゃないか。できないことないけど。」 と、いろいろ書いてみました。もし、よろしければ裏年表のような感じでぐっこ様に送付いたします。 でも高校三年間(実際は30年以上)戦い続けた曹操と劉備は本当に”当代の英雄”に恥じないと実感しました。物語だけでは見えないこともあると、日頃軽視しがちな年代表記を再認識した次第です。
10:★ぐっこ 2002/01/27(日) 00:48 ↑ ※実際に投稿いただいたのは1/22(Tue) 14:33です(;^_^A おお、換算ありがとうございます! お疲れさまでした…(;^_^A 基本的に、曹操の風雲を30年と換算すると、まあ学園にしてみると10分の1というパースになるんですよね… 初回公開の年表では、赤壁は冬でした(;^_^A しかしながら、さすがに学校が許可せんだろうというのと、曹操が泳げないという裏設定を生かすために、大幅にずらした記憶が… 代わりに、冬のあいだは長湖は凍ります(;^_^A アーサー・ランサムのごとく、冬場はそりとかでも遊べるんですよ! 裏年表! 是非とも頂きたいです! 参考…というか、成り行きによっては表年表の修正材料とさせていただきます!
11:岡本 2002/01/27(日) 01:00 三国迷の皆様。岡本です。 質問ですが、過去ログにあったかも知れませんが、作中の戦闘参加人数は設定上、実際のものの何分の1に対応しているのでしょうか。 学園総人数が1万人単位ということですから100分の1くらいだとは思うのですが。 いや、書き物ねたをいろいろ考えていて、学研歴史群像のバックナンバーをいろいろ漁っていまして、ふとその疑問に突き当たりましたから。
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