☆結構凄い勢いで人物設定を適当に考えるスレ☆
314:雪月華2003/12/11(木) 08:38
学園正史 劉氏蒼天会紀 孝献蒼天会長紀  訳・編 雪月華

 劉協。中等部三年の夏休みに蒼天会長に就任してからは「献サマ」が尊称となったため、ほとんど用いられることはなかったが、あだ名は伯和。劉氏蒼天会における、最後の会長である。

 曹操ほどではないが、体つきは小柄で、左肩のつけ根あたりに、蒼天会長継承資格者の証である、北斗七星の形に並んだほくろがあること以外は、これといって身体的特徴は無い。さらに言えば、眼鏡っ娘でもなかった。ただ、そのほくろは、虫眼鏡で観察しなければ確認できなかった劉宏や劉辧と違い、歴代会長中でも、飛びぬけてはっきりとしたものであったという。

 学業成績は比較的いいほうで、幼稚園児の頃からピアノを嗜み、高等部一年の時点で、その腕前は異能者揃いの蒼天学園の中においても五指に入る、と曹操は評価していた。クラシックからジャズ、ハウス、アニメソングまでレパートリーは幅広く、基本的に、楽譜さえあればどんな曲でも弾きこなすことのできる、一流のピアニストであった。その哀愁に満ちた旋律は、つらく悲しい経験をするごとに深みを増し、あの曹操を何度も号泣させたほどであったという。

 基本的に物欲は薄いが、ピアノにはこだわりがあり、董卓が長安棟での贅沢の一環で買い与え、逃避行の後は長安棟に置き去りにされていたグランドピアノを、曹操に頼み込んで許昌棟の蒼天会長室に運び込んでもらっていたりしていたことがあった。

 誰に対しても物腰が柔らかく、基本的に他人を「さん」付けで呼ぶ。比較的おとなしい性格であり、争い事は好まないが、話し合いだけでは世の中は成り立たない事も、十分に承知していた。

 正妻の実娘だが、病弱だった母親は劉協を出産後、ほどなくして死亡した。その直後、二人の娘(劉宏、劉辧)を連れた、父親が愛人としていた人物が後妻として入り、厄介払いの形で、劉協は母の実家に預けられた。

 いわゆる「夜の蝶」である後妻に育てられた、と言うより放任されっぱなしであった劉宏と劉辧は、ろくでもない性格に育ち、温厚で善良な祖父母夫婦のもとで養育された劉協は、明るく、おとなしい性格に育った。また、新進ピアニストとして売り出し中だった叔母に、幼稚園児の頃からピアノを習いはじめ、もともと才能があったためか、みるみるうちにその腕前を上達させていった。
※註……この後妻と、劉辧と劉協が熱狂したアイドルのkaiは、まったくの赤の他人である事を断っておく。

 ひとつ上の学年に、異腹の姉であり、第12代会長・劉宏の実妹である劉辧がおり、劉協本人も野心が少なく、比較的おとなしい性格であったため、後継者レースにおいて、その存在はさほど重要視されていなかった。現に中等部三年の夏までは他の一般生徒と何ら変わりない学園生活を送っており、そのため、中等部時代から蒼天会長候補として特別に扱われ、浮世離れした感のある劉宏や劉辧に欠落していた、常識という美徳を持ちあわせていた。

 学園生活の目標は「自分の卒業式で、合唱のピアノ伴奏を務める」というものであったが、世事に無関心というわけでは決してなく、董卓政権以降の、圧政、暴政に苦しむ生徒達を目の当たりにしてきたため、学園の平和を願う気持ちは、ある意味、曹操や劉備よりも強かった。

 ある時、李カク郭レに追い詰められ、錯乱した王允に「あなたさえいなければ、生徒会が二つに割れることも無かったし、蒼天会の威光がここまで貶められる事も無かった。あなたなんて…あんたなんかいなければ、この世に存在しなければ良かったのよ!」と、凄惨な表情で自分の存在を否定されてしまい、ついぞ最近知った自分の出生時のこととあいまって、立ち直れないほどの精神的ショックを受け、上級生に対する強烈なトラウマを植え付けられてしまう。その後、他人とまともに目を合わせることすら困難な状態となり、董承、伏完らの上級生に対して、強烈な拒否反応を示したため、心理カウンセラーもこなす神医・華佗すらさじを投げ、退学させて、学外の病院へ転送するより他はないところまで追い込まれてしまった。

 そこに現れた救世主が、先頃、董卓に対して反乱を起こし、鎮圧された後は行方不明になっていた、蒼天会右車騎主将の朱儁であった。早いうちに進学先を決めていたということもあるが、李カク、郭レの反乱直前、受験対策のため引退した、親友である皇甫嵩のたっての頼みで、劉協を救いに現れたのである。朱儁は年下の李カク郭レに頭を下げてまで蒼天会に復帰すると、劉協に対し、まるで母親のように優しく、時には厳格に接し、ゆっくりと時間をかけて劉協の心をケアしていき、3月の卒業直前に、なんとか劉協の上級生恐怖症を克服させる事に成功した。

 その直後、暗黒軍師・賈[言羽]の策により李カクと郭レが劉協の身柄を巡って争いはじめ、朱儁がそのとばっちりで飛ばされてしまう。劉協は鍾ヨウの手引きでなんとか長安棟を脱出し、弘農棟に一時的に身を潜めることになり、蒼天学園は蒼天会長行方不明という前代未聞の状態のまま4月に入り、新年度を迎えることとなった。

 もはや伝説となった、曹操との初顔合わせである「洛陽棟蒼天会長室の会見」において、その破格の器量と学園統一の志、そして統一に至る具体的な道筋を示した曹操に全幅の信頼を寄せる。同時に、曹操に対して恋愛感情に近いものを抱いたが、ほどなく曹操は関羽に熱を上げはじめたため、最後までその感情を表に出す事は無かった。

 いわゆる、欲の少ない人間であるため、董承、伏完、韋晃といった権勢欲の強い他人からは誤解されやすかったが、曹操は劉協の真意を理解していたため、彼女達の曹操に対する敵対行動の責任が、劉協自身に及ぶ事はなかった。

 カント決戦公式応援ソングである「哀 戦士」のピアノ&コーラスを自分から曹操に申し出してまで担当し、官渡棟に立て篭もる曹操軍の士気高揚に一役買ったといわれている。ちなみに、練習の時点では劉備がギターを担当していたが、その後、曹操を裏切ってしまったため、その後は夏侯惇がギターを担当したという裏話がある。劉協によれば、ギターは劉備のほうが上手だったらしい。

 なりたくて蒼天会長になったわけではなく、劉協自身、早く引退してピアノに専念したいという思いもあったため、廷臣の董承らが不祥事を起こしては飛ばされるたびに、曹操に蒼天会長の座を譲ろうとしていたが、そのたびに曹操は「学園統一まで待ってて」と、頑として受け付けなかったという。

 カント決戦の最中、ミカン売りに扮して許昌棟を偵察していた同学年の周瑜に出会い、その正体には気付かぬまま、圧倒的なピアノの腕の差を見せ付けられる。だが、落ち込むでもなく「越えるべき壁が見つかった」と嬉々としていた。

 「学園統一後、蒼天会長の座は頂く」という約束を果たせぬまま引退した曹操に代わって、生徒会長を引き継いだ曹丕の要請に応じ、学園の統一と平和な施政を約束させた上で蒼天会長の座を譲り渡した。帰宅部連合としても、曹丕の蒼天会長就任を正当化させないために『生徒会長・曹丕、劉協を飛ばして蒼天会長の座を簒奪』と蜀新聞に掲載したため擁立するわけにはいかなかった。
※註……一説によると、劉協が眼鏡っ娘ではなかったために、何かと公私混同しがちな、眼鏡っ娘好きの諸葛亮が擁立に反対したためともいわれているが、信憑性は薄い。
 
 蒼天会の呪縛から解放され、そのまま学園史の表舞台から姿を消したが、階級章はそのまま所持していたため、その後、卒業までの一年強の間、ひたすらピアノと受験勉強に励んだ結果、学内、学外を問わず数々のコンクールにおいて「蒼天会長」というネームバリューに依らず、実力で優秀な成績を残した。そして二月には一流の音大に合格した。

 そして、卒業を目前に控えての、卒業式におけるピアノ伴奏者選考会において、意外にもあっさりと代表に選出される。というのも、人気、実力共に飛びぬけて高かった周瑜が、二年生の秋に荊州校区争奪戦で負傷し、そのままドクターストップで引退した後は入院生活を余儀なくされ、卒業に必要な単位を取得する事で精一杯であり、ピアノどころではなかったためである。

 そして卒業式当日、孫策に病院から誘拐されて会場に姿を表した周瑜は、自分があの時のミカン売りの美少女である事を劉協に明かし、学内ケーブルテレビで中継されていた選考会での演奏から、既に劉協はピアニストとして自分を越えていると保障し、劉協に握手を求めたという。式典におけるその旋律は、過去最高の冴えを見せ、孫策や曹丕までをも、本気で泣かせたという。

 式典終了後、平和だった中等部時代の級友達と感動の再会を果たし、笑顔で卒業していった……
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