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☆東晋ハイスクールの設定を真剣に考えるスレ☆
13:★玉川雄一 2004/04/01(木) 23:06 那御さんフォローさんくす。 “郭馬の乱”を討呉作戦発動の直接的な要因とするならば、 間接的なあるいは前提条件ともいえる要因は“河西鮮卑動乱の鎮圧”にある。 晋王朝成立よりこのかた河西(黄河のオルドス地方)に居住する鮮卑族の動勢は不穏であり、 ことに270年代に入ってからは晋軍と度々激突を繰り返すことになった。 270年 秦州刺史胡烈、万斛堆で鮮卑軍に敗死 271年 涼州刺史牽弘、青山で北地胡に敗死 274年 鎮西将軍司馬駿、金城に来寇した乞文泥を斬る 275年 禿髪樹機能が来降。西域戊己校尉馬循、鮮卑を討つ 276年 司馬駿、北胡を討ち渠帥の吐敦を斬る 鮮卑の阿羅多が来寇するが馬循がこれを撃破する。“斬首四千、獲生九千” 277年 樹機能が背き、平虜将軍文俶がこれを破る 278年 涼州刺史楊欣、武威で若羅抜能に敗死 279年 樹機能が涼州を攻略するが、討虜護軍馬隆がこれを討ち涼州を奪回 馬隆の涼州奪回は厳密には討呉軍出征の後のことになるが、 この年ごろには既に南方へ大軍を発する余裕を持つまでに情勢は好転していたのではないだろうか。 これ以降、涼州方面は引き続き駐留を続ける馬隆の活躍によりしばしの平穏を得ることになる。
14:玉川雄一 2004/04/02(金) 08:20 そいやふと気になったのですが、 呉が晋に降伏した後に郭馬はどうなったんでしょうね。 基本的に呉の支配層は引き続き任用されたようですが、 背く対象が崩壊した郭馬の身の置き所はいったい・・・? 滕脩らが改めて広州に入ったらはいそうですか、と 矛を収めて事が済んだものなのかしら。 あるいは晋の保護を求めて旧呉領を脱出するという選択肢もあっただろうけど、 行き場をなくして結局滕脩に討伐されたとかだったら悲惨だなあ・・・
15:那御 2004/04/03(土) 12:41 この当時から鮮卑の力は強大でしたからね・・・ 永嘉の乱で西晋を滅亡に追いやったのは匈奴であったとはいえ、 最終的に五胡十六国を制した北魏のルーツも鮮卑でしたし・・・ で、郭馬ですが、ようわからんですねw 「〜〜,命交州牧陶璜部伍所領及合浦﹑鬱林諸郡兵,當與東西軍共擊馬.」 ってのがあったんですが、よ〜く考えたらこれってあくまでも『攻撃』の意であって、 『討った、殺した』の意味じゃないですし・・・ でも鎮圧されたのは確かであり、相手は孫皓だから、生存は微妙・・・
16:★玉川雄一 2004/04/03(土) 21:35 あれ、郭馬の乱って呉軍によって鎮圧されたんでしたっけ。 滕脩と陶コウらで挟撃をかけたとまではありますが、その後はどうなったのかしら。 というのも、晋書滕脩伝に 「廣州部曲郭馬等為乱、晧(孫晧)以脩(滕脩)宿有威恵、為嶺表所伏、 以為使持節、都督廣州軍事、鎮南将軍、廣州牧以討之。」 とあり、そのすぐ後に続いて 「未克而王師伐呉、脩率衆赴難。至巴丘時晧降、乃縞素流涕而還、 與廣州刺史閭豊、蒼梧太守王毅各送印綬〜」 となっています。これだと、郭馬の討伐が終わる前に晋軍の総攻撃を知り、 長江方面へ引き返したと読めますよね。 そして巴丘まで到達したところで孫晧降伏の報を受け、自らも降ったと。 ちなみに晋書陶璜伝には郭馬の乱討伐に関する記述はありませんでした。
17:★玉川雄一 2005/07/20(水) 20:15 【参考資料】 玉川流晋代人物小伝。 2ちゃんの数値化スレに投下したネタなのでその辺お含み置きを。 吾彦(ゴゲン) ?〜310年代? 字は士則。呉の建平太守、のち晋の交州刺史、大長秋。 陸抗に見出され、建平太守として晋軍の包囲戦を戦い抜く。 晋に降ってからは各地の地方官を歴任し、交州を治めた。 政治 7 各地の地方官を務めて治績を挙げる 政略 7 余人を納得させる正論を説く 戦闘 8 武勇に優れる 戦略 7 建平防衛戦や交州平定に戦功あり 人徳 7 各地で威恩著しい 忠誠 8 呉を最後まで見捨てず、また晋朝にも貢献した 猛獣と格闘し、膂力絶倫とも称される一方で内政官としても有能で、 また孫晧や司馬炎にも憚ることなく直言したという。 寒門の出身のため、同郷の陸機・陸雲兄弟から侮られたこともあった。 陶璜(トウコウ) ?〜290年代? 字は世英、呉の交州刺史陶基の子。交州刺史、冠軍将軍。 呉に仕えて交州方面で活躍。のちに晋に降り、引き続き同地を治めた。 政治 7 南方統治のエキスパート 政略 8 不服住民までもよく手懐ける 戦闘 7 晋軍を撃破 戦略 7 交阯攻防戦での用兵が光る 人徳 8 民衆によく慕われた 忠誠 7 孫呉、西晋ともに尽くした つごう三十年に渡って南方統治に携わり、 父より数えて四世五人の交州刺史を輩出することになる。 なお、280年に晋の討伐軍を迎撃に向かったものの 一夜にして部下に逃げられたという陶濬は弟にあたる。
18:★玉川雄一 2005/07/20(水) 20:20 周處(シュウショ) 236〜297 字は子隠、呉の周魴の子。呉からその滅亡後は晋に仕える。 才能はあったが権力者を容赦なく弾劾したので忌避され、 齊萬年の叛乱討伐に際し寡兵での戦闘を強要されて戦死。 政治 7 辺地の慰撫、訴訟の決裁、綱紀の粛正に才を発揮 政略 3 容赦ない弾劾は正しいが賢い生き方ではなかった 戦闘 7 寡兵にて追いつめられてからの奮戦が光る 戦略 6 掣肘を解かれたならば実力発揮の可能性ありとの証言も 人徳 3 若い頃は嫌われ者だった。のち心を入れ替えたが剛直さが命取りに 忠誠 7 忠誠心がかえって敵を作るタイプ 旧江南系の名士は晋朝中央において何かと風当たりが強かったが、 彼の場合は少なからず自業自得であるともいえる。 ちなみに著作を残しており、『風土記』は当時の風俗を伝える史料となった。 また彼の墓が発見され、副葬品のアルミニウム合金がオーパーツだと話題になったが、 どうやら後の時代に盗掘された際に混入したらしい銀製品だったとか。 周處伝(晋書巻五十八)の抄訳 周處は字を子隠、義興陽羨の人。父の周魴は呉の[番β]陽太守。周處は早くに父を喪ったが、長じても身を慎むことなく郷里では嫌われていた。 時に義興の地には民を苦しめる虎、蛟(みずち)、そして周處の「三横」があり、周處はその内で最も害悪が酷かったという。周處は他の二横の退治を試み、まず虎を討ちついで蛟とは三日三晩の死闘の末ようやくこれを仕留めることに成功した。しかし郷里では周處がもう死んでしまったと思って喜び合っており、周處はここで自分が人々に嫌われているのに気付く。そこで行いを改めるべく陸機、陸雲兄弟を訪ね「行いを改めたいが、年齢も過ぎたことだしもう無理なのではないか」と嘆くと陸雲に「今からでもけして遅くはない」と諭されて一念発起して学を志し、呉に仕えて東観左丞、ついで無難督となった。 (この「三横」と陸雲に諭されるエピソードは晋書の伝にも世説新語にも収録されている。しかし世説新語の解説に拠ればこの事件は周處が呉に出仕する以前のこととされており、陸機の年齢から推察して真偽のほどは少々疑わしいともいう) 呉が降伏した際に、進駐してきた王渾に皮肉を言われた際には逆にやりこめたというエピソードが伝わる。その後晋に出仕し、新平、廣漢らの太守を歴任する。羌族を慰撫し、三十年来滞っていた訴訟を一朝にして解決するなど治績を挙げた。母が老いたことで一時帰郷するが、楚国の内史に召されて任官する前にまた散騎常侍にも徴せられる。周處はより下級の役ではあるが敢えて前者を優先し、楚国の混乱した民情を整え、その後改めて散騎常侍の徴に応じたことで賞賛を得た。 その後御史中丞に転じたが、“およそ糾劾するところ寵戚を避けず”という徹底ぶりが彼の命取りとなった。梁王の司馬[月彡](司馬懿の子)はかつて法を犯し、それを周處に弾劾されたことを怨んでいたのだが、296年に陝西でテイ族の齊萬年が叛乱を起こす。“朝臣悪處(周處)強直、皆曰「處、呉之名将子也、忠烈果毅」”というから、周處は中原の士人から総スカンを受けていたらしい。「呉之名将子」というのも当然当てこすりや褒め殺しの類だろうし、「忠烈果毅」に至っては却ってその裏に隠された諸人の恨みが見えるようでもある。この時、かの孫秀(孫匡の孫で、呉から晋に亡命していた)が老母を理由に辞退してはどうかと勧めたところ、周處は敢然としてこれを断り「忠孝を完全に両立することはできず、まして一度母のことで君命を辞しているのだ。今日これが我が死に所である」と言い切った。これを聞いた齊萬年は、「周府君(周處)については、かつて新平太守だったころにその人となりを知っている。才は文武を兼ね、もし専断を許されるならばこれに当たることはできないだろう。しかし他人の掣肘を受けるならば、我らが擒になる」と言ったという。果たして296年11月、討伐軍は征西大将軍都督関中諸軍事の司馬[月彡]を総帥とし、安西将軍夏侯駿(夏侯威の子)、そして建威将軍周處が派遣されることになった。中書令の陳準(陳泰の族子か。魏書陳羣伝末尾の裴註『陳氏譜』参照)は「夏侯駿、司馬[月彡]は貴族ではあるが将率の才はなく、進んで名を求めることもなければ、退いたところで咎を畏れることもないだろう。周處は呉の人で忠勇果勁、恨みを受けていて助ける者もなく、必ずその身を喪うだろう。孟観(周處戦死後、討伐軍の主力となる)に精兵を与えて周處の前鋒とすれば必ず敵を破れるが、そうでなければ司馬[月彡]は周處を先駆させ、必ず敗れるだろう」と朝議で論じたが容れられることはなかったのだった。 明けて297年1月。齊萬年の軍は梁山に屯し、その数七万。夏侯駿は周處にわずか五千でこれを討つよう逼(せま)った。周處は無謀だと諫めたが司馬[月彡]は重ねて周處に進軍を命じる。振威将軍盧播、雍州刺史解系らとともに六陌に齊萬年を攻めることになったが、周處の軍は食事を与えられておらず、その上で司馬[月彡]は速やかに進撃することを促した。しかるに後続の軍はなく、周處は覚悟を決める。辞世の詩を賦すと戦闘を開始し、日没まで戦い斬首した敵は万を数えるにのぼった。弦は絶たれ矢は尽きたが盧播、解系の援護はなく左右の者は撤退を勧めたが、「将として命を受けた身は進むことはあっても退くことはなく、負け戦とはなったが我は大臣、国に殉じるのみ!」と言い放つと力戦して没した。周處は平西将軍を追贈され、多くの土地を賜ることになり、また老母には終生保護が与えられることになったという。なお齊萬年の乱はなおも続き、299年1月に孟観によってようやく鎮定されるのだった。 周處はいくつかの著作も残しており、『風土記』は当時の風俗を伝える史料となった。(「周處」または「周処」「風土記」でネット検索すると色々とヒットするので参照あれたし)
19:★玉川雄一 2005/07/20(水) 20:24 周訪(シュウホウ) 260〜320 字は士達、呉の左中郎将周敏の子で威遠将軍周纂の孫。 東晋の安南将軍、持節都督梁州諸軍、梁州刺史、尋陽県侯。 はじめ県吏となり、陶侃と親交を結んでその子陶瞻に自分の娘を嫁がせた。 のちに司馬睿に仕えて将として各地を転戦し、 華軼、杜弢(トトウ)、杜曾、第五猗(ダイゴイ)らの叛乱を次々に平定した。 王敦と対立しつつも北伐を企図していたが、果たせずに死去した。 政治 7 農業を奨励するなど行政にも手腕を発揮 政略 7 野心家の王敦を抑え得る存在感を持っていた 戦闘 9 実戦指揮官として勇戦を重ねる 戦略 8 司令官としても優秀で北伐まで視野に入れていた 人徳 8 謙虚にして威風あり士衆から心服された 忠誠 8 成立期の東晋朝廷を軍事面で支えた 彼の伝には戦歴が詳細に記録されている。戦術レベルでの勇武機略もさることながら 大局的な戦略眼も持ち合わせており、『中興の名将』の名は伊達ではない。 荊州の混乱を鎮めて襄陽に駐屯し、のちに叛乱を起こすことになる王敦も 彼の存命中は事を起こすことはできなかった。 周訪の側でも王敦を掣肘しつつ中原回復を目指すなど朝廷への忠心はあつく、 その死は元帝・司馬睿をいたく嘆かせたという。 余談ながら、周訪は戦闘中に矢を受けて前歯が(上下とも)折れてしまっていた。 陶侃(トウカン) 259-334 字は士行、呉将陶丹の子。荊蛮の血をひくともいう。 東晋の侍中、太尉、使持節都督荊江雍梁交広益寧八州諸軍事、荊江二州刺史、長沙郡公。 貧困の中で張華に認められ、劉弘の配下として荊州を転戦する。 累進して長官職を歴任し、王敦、蘇峻の叛乱平定に協力する。 のちに「西府」を形成して朝廷とは微妙な関係を保ちつつ荊州を治めた。 政治 8 実務能力に裏打ちされた治績を挙げる 政略 9 したたかな駆け引きで重鎮としての地位を全うした 戦闘 8 敗戦も少なくないが実戦指揮官として最終的な勝率は高い 戦略 9 長年に渡って軍を指揮し叛乱鎮圧から侵攻戦までこなす 人徳 9 謹厳を旨とし、明敏で決断力に富み民から慕われた 忠誠 6 かなりの野心家である一方晋の臣として己を律した 彼の治下は「落し物を拾って私物化する者はいない」ほどよく治まっていた。 軍功も著しくその力が何度となく東晋朝廷を救ったが、 蘇峻討伐への参加を渋るなど一筋縄ではいかない面もあった。 あと一歩で天に昇り損ねた夢を戒めとして野心を抑えていたという逸話もあり、 中原回復を志す人格者としての一面と合わせて複雑な性格の持ち主だったようだ。
20:★玉川雄一 2005/07/20(水) 20:27 甘卓(カンタク) ?〜322 字は季思、呉の太子太傅甘昌の子で甘寧の曾孫。 東晋の鎮南大将軍、侍中、都督荊梁二州諸軍事、荊州牧、梁州刺史、于湖侯。 呉の滅亡後は野に下るが州に招かれて再び出仕し、 呉王司馬晏に仕えて石冰の乱(303〜304)を討つ。 陳敏の乱にはいったん与するが顧栄の説得で討伐軍に転じた。 江南に渡ってきた司馬睿に仕えて各地を転戦し梁州刺史として襄陽に駐屯するが、 王敦の蜂起に同心しなかったために暗殺された。 政治 7 善政を敷いた 政略 4 優柔不断が命取りに 戦闘 7 苦戦しながらも多くの敵を撃破 戦略 7 各地を転戦し功を立てる 人徳 7 外柔内剛にして民を慈しむ 忠誠 6 いまひとつ煮え切らない 戦功多く為政者としても資質を発揮したが、優柔不断さが命運を分けた。 王敦の乱ではその背後を衝ける戦力を有していたにもかかわらず 逡巡するうちに討伐の機を逸し、軍をかえし襄陽に引きこもってしまう。 兵を分散して備えを怠り、王敦の教唆をうけた襄陽太守周慮に暗殺されてしまった。 戴淵(タイエン) 260年代?〜322 字は若思。祖父は呉の左将軍・戴烈で、三国志呉書呉主伝赤烏13(250)年12月の項に陸凱と共に登場する。父は会稽太守の戴昌。 戴淵は若かりし頃は遊侠に興ずるなど奔放に生きていたが、陸機の知遇を得た。後に孝廉にあがって洛陽に入り、陸機によって趙王・司馬倫に推薦される。(戴淵この時30歳) その際の登用には応じなかったが、後に東海王・司馬越の元で軍諮祭酒となり、外に出て予章太守、振威将軍を加え、義軍都督を領する。賊徒討伐に功があり、秣陵侯の爵を賜る。のち治書侍御史、驃騎司馬に遷り、散騎侍郎を拝す。 続いて江南に派遣されていた琅邪王・司馬睿に召されて鎮東右司馬となり、315年には叛徒である杜トウ討伐のために前将軍を加えられるが、出馬する前に乱は鎮圧された。 司馬睿が晋王となると尚書になり、さらに皇帝即位に際してのいくつかの加官は辞去したが、321年には仮節を与えられ、征西将軍、都督エン([六兄])豫幽冀雍并六州諸軍事、散騎常侍となり、軍を整えて合肥に駐屯することになった。 しかし翌322年、大将軍・王敦が叛乱を起こす。戴淵は驃騎将軍に任じられて都(建康)の防衛にあたったが、王敦に奪われた石頭の再奪取に失敗し、この敗北により王敦討伐軍は瓦解する。 王敦は勝者として朝廷に入ったが、帝室を打倒するのが目的ではなかった。挙兵の名分であった「君側の奸」であるチョウ協は既に敗死し、またいま一人の劉カイ([β鬼])は石勒のもとへ出奔していたのである。王敦は自ら丞相以下いくつかの顕職を兼ね、廷臣の再編成に着手する。 王敦の参軍である呂猗は才人ではあったがかつてその人柄を戴淵に忌避されていた。呂猗は意趣返しに讒言を行い、王敦によって戴淵は殺害されてしまう。彼の死は、「四海の士に痛惜せざるはなし」と惜しまれたという。
21:海月 亮 2005/07/20(水) 22:48 すげぇ…晋代の江東系名将勢ぞろいだ(;;゚Д゚) 流石は玉川様、大いに参考になるのであります。 そして海月はSSで「戴烈」を「戴陵」と書き間違えたという恥ずかしい失敗をしていたことが判明…_| ̄|○
22:雑号将軍 2005/07/20(水) 23:11 おおおおおおおおおおお!なんとっ!ありがとうございます、玉川様!!もうなんとお礼を申せばいいのか…。 よくわかりました。とにかく、とにかく、多大なる感謝をっ!
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