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☆東晋ハイスクールの設定を真剣に考えるスレ☆
26:★玉川雄一 2005/07/21(木) 21:44 薛兼(セツケン) ?〜322 字は令長、呉の光禄勲薛瑩の子で薛綜の孫。東晋の太常、散騎常侍、安陽郷侯。 若き日には紀瞻、閔鴻、顧栄、賀循らとともに「五儁」と号した。 洛陽に入って張華に認められ、司馬越から転じて司馬睿に仕える。 太子(のちの明帝・司馬紹)少傅となり、祖父より三代続けて太子の傅役を務めたと賞賛された。 政治 8 官僚として累進し、丹楊尹や尚書まで務めた 政略 7 太子の傅役として信任を得た 戦闘 2 実戦には関わらず 戦略 4 強いて言えば参軍などの経験があるくらい 人徳 7 若い頃から名声があった 忠誠 7 朝廷によく仕えその死を悼まれた 祖父、父は呉で、当人は東晋でと三代に渡って太子の傅役を務めた珍しい家系だが、 それはすなわち帝室からの信頼の篤さを示しているとも言える。 (ただし父の薛瑩は一時期孫晧から不興を買っていた) 明帝・司馬紹は太子時代から薛兼に指導を受けていたが、 即位してこれからもというときに薛兼を失った。彼を悼んだ詔書は哀惜に満ちている。 とりあえずこんなところで。 西晋王朝が『八王の乱』『永嘉の乱』で崩壊した際、 江南で再起を図る司馬睿(即位して東晋初代元帝となる)に対して、 地元の名士連中は力を貸すのと引き替えに政権参画を目指しました。 当初のまとめ役である顧栄(>>24)の存命中は良好な関係にあったのですが、 彼の没後に宰相・王導らの巧妙な分断策により北方から亡命してきた士人達が ヒエラルキーの上位に入り込んでくることになります。 それを憂えた周玘(>>23)らの抵抗もむなしく抑えられ、 この後東晋王朝において旧孫呉系の人物は政権トップからは離れてゆくことになります。 しかし顧衆(>>24)やその他にも陸曄、陸玩兄弟(陸遜の傍系の子孫)などのように 中堅の官僚として名を残した人物もいたりします。
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