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☆東晋ハイスクールの設定を真剣に考えるスレ☆
11:★玉川雄一2004/04/01(木) 02:01
【呉軍】
蔡機(某所の督)…王恆に捕らわれる
諸葛靚、孫奕…司馬伷に降伏
尋陽:周興(武威将軍)…王渾軍に捕らわれる 孔忠(牙門将)
高望:兪恭…李純に敗れる
省37
12:那御2004/04/01(木) 14:19
もはや討呉戦役の参戦武将に関しては玉川様の記述に非の打ち所が無いため、
戦役の補足でもしましょう・・・
この戦は、これまで繰り返されてきた局地的な小競り合いではなく、
総勢20万の軍勢による「完全決着」を狙った大攻勢であった。
司馬炎がこの侵攻に踏み切ったのは、その年の夏に広州で勃発した郭馬の乱によって、
省18
13:★玉川雄一2004/04/01(木) 23:06
那御さんフォローさんくす。
“郭馬の乱”を討呉作戦発動の直接的な要因とするならば、
間接的なあるいは前提条件ともいえる要因は“河西鮮卑動乱の鎮圧”にある。
晋王朝成立よりこのかた河西(黄河のオルドス地方)に居住する鮮卑族の動勢は不穏であり、
ことに270年代に入ってからは晋軍と度々激突を繰り返すことになった。
省20
14:玉川雄一2004/04/02(金) 08:20
そいやふと気になったのですが、
呉が晋に降伏した後に郭馬はどうなったんでしょうね。
基本的に呉の支配層は引き続き任用されたようですが、
背く対象が崩壊した郭馬の身の置き所はいったい・・・?
滕脩らが改めて広州に入ったらはいそうですか、と
矛を収めて事が済んだものなのかしら。
省9
15:那御2004/04/03(土) 12:41
この当時から鮮卑の力は強大でしたからね・・・
永嘉の乱で西晋を滅亡に追いやったのは匈奴であったとはいえ、
最終的に五胡十六国を制した北魏のルーツも鮮卑でしたし・・・
で、郭馬ですが、ようわからんですねw
「〜〜,命交州牧陶璜部伍所領及合浦﹑鬱林諸郡兵,當與東西軍共擊馬.」
省10
16:★玉川雄一2004/04/03(土) 21:35
あれ、郭馬の乱って呉軍によって鎮圧されたんでしたっけ。
滕脩と陶コウらで挟撃をかけたとまではありますが、その後はどうなったのかしら。
というのも、晋書滕脩伝に
「廣州部曲郭馬等為乱、晧(孫晧)以脩(滕脩)宿有威恵、為嶺表所伏、
以為使持節、都督廣州軍事、鎮南将軍、廣州牧以討之。」
省16
17:★玉川雄一2005/07/20(水) 20:15
【参考資料】
玉川流晋代人物小伝。
2ちゃんの数値化スレに投下したネタなのでその辺お含み置きを。
吾彦(ゴゲン) ?〜310年代?
省37
18:★玉川雄一2005/07/20(水) 20:20
周處(シュウショ) 236〜297
字は子隠、呉の周魴の子。呉からその滅亡後は晋に仕える。
才能はあったが権力者を容赦なく弾劾したので忌避され、
齊萬年の叛乱討伐に際し寡兵での戦闘を強要されて戦死。
省32
19:★玉川雄一2005/07/20(水) 20:24
周訪(シュウホウ) 260〜320
字は士達、呉の左中郎将周敏の子で威遠将軍周纂の孫。
東晋の安南将軍、持節都督梁州諸軍、梁州刺史、尋陽県侯。
はじめ県吏となり、陶侃と親交を結んでその子陶瞻に自分の娘を嫁がせた。
のちに司馬睿に仕えて将として各地を転戦し、
省45
20:★玉川雄一2005/07/20(水) 20:27
甘卓(カンタク) ?〜322
字は季思、呉の太子太傅甘昌の子で甘寧の曾孫。
東晋の鎮南大将軍、侍中、都督荊梁二州諸軍事、荊州牧、梁州刺史、于湖侯。
呉の滅亡後は野に下るが州に招かれて再び出仕し、
呉王司馬晏に仕えて石冰の乱(303〜304)を討つ。
省37
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