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☆東晋ハイスクールの設定を真剣に考えるスレ☆
23:★玉川雄一 2005/07/21(木) 21:28 せっかくなので、「武将」からは外れるけど孫呉系の人物を補完。 滕脩(トウシュウ) ?〜288 字は顯先。はじめ呉に仕え、のち晋に降る。 政治、軍事双方に才を発揮し、南方統治を任された。 政治 7 廣州での治績あり 政略 6 目立った功績はないが廣州をよく治めた 戦闘 6 将帥としての経歴を持つ 戦略 6 郭馬の乱討伐の顛末が不明だが… 人徳 7 威恵甚だ有りと評された 忠誠 7 仕える相手にはそれぞれ尽くした なまじ演義にチョイ役で出てしまったために コーエーの三國志IXではザコ文官扱いされてしまったが、 実際は水準以上の才能を持っていたようだ。 また、ヒゲの長いエビの存在を信じようとしなかったが、 現物を見せられて自分の誤りを改めたというお茶目なエピソードを持つ。 周玘(シュウキ) 258〜313? 字は宣佩、周處(>>18)の子。西晋の行建威将軍、呉興太守、烏程県侯。 父の性格を受け継ぎ、州に招かれ出仕する。 石冰の乱では郷里を挙げてこれを討ち、平定に貢献する。 陳敏の乱でははじめこれに加わるが後に見限って討伐軍に転じた。 呉人銭璯(センカイ)の乱を平定して司馬睿から篤く賞せられたが、 北来の士人が幅を利かせ自らは軽んじられるのに堪えきれず憤死した。 政治 6 呉興の地に寧謐をもたらした 政略 7 江南士人を糾合し、周氏を興隆させた 戦闘 7 水陸によく戦い叛乱軍を討つ 戦略 7 江南を三たび平定した 人徳 7 威恵あり皆から敬愛された 忠誠 5 朝廷への忠誠というより郷土愛 父亡き後の周氏を率いて江南有数の実力を蓄えたが、 それに比してヒエラルキーにおける序列が低く抑えられたことに反発を覚えていた。 ついに挙兵に至る直前に無念の憤死を遂げたが、 子の周勰(シュウキョウ)は遺言に従って蜂起する。 しかし既に周氏は王導らの切り崩し工作によって内部分裂を起こしており、 叛乱はあっけなく鎮圧されてしまう。残った周氏ものちに王敦に討たれ、 強盛を誇った陽羨周氏は急速に衰退していった。
24:★玉川雄一 2005/07/21(木) 21:30 顧栄(コエイ) ?〜312 字は彦先、顧穆(一名顧裕)の子で顧雍の孫。西晋の散騎常侍、安東将軍司馬、嘉興伯。 はじめ呉に仕えるがその滅亡後は洛陽に入り、陸機、陸雲兄弟とともに「三俊」と号される。 八王の乱では諸王に仕えるもその志を得ず、江南に還る。 陳敏の乱(305〜307)においては一時それに荷担するが先行きを危ぶみ、 僚友らとこぞって討伐軍に身を転じた。 後に司馬睿の幕僚となり、江南士人を数多く推挙した。 政治 7 江南に還りようやくその才を発揮 政略 8 幾多の危機を切り抜ける 戦闘 4 陳敏の乱では自ら戦った 戦略 7 司馬睿の参謀役を務める 人徳 8 江南での人望はあつい 忠誠 6 主を変えつつ身の活かしどころを選ぶ 陸機、陸雲兄弟亡き後は、この顧栄が名声において江南士人の筆頭にあったと思われる。 司馬睿政権とは利害が一致し、勢力地盤を提供する引き換えに僚友らに仕官の途を確保した。 江南諸豪族は彼を中心によくまとまっていたがその死後は巧妙な政略により分断され、 北来士人優位の構造に再構成されてゆくことになる。 なお、司馬倫の与党として連座しかけたとき、かつて"あぶり肉”を分け与えた給仕係が 一飯の恩に報いるために顧栄を救出してくれたことがあったという。 顧秘(コヒ) ?〜310年代前半 顧雍の一族である顧悌の子。西晋の交州刺史。 文武に才幹あり、吾彦の没後に後任として交州刺史を務める。 …これぐらいしか調べられなかったので、子の顧衆を。 顧衆(コシュウ) 274〜346 字は長始、顧秘の子。東晋の尚書僕射、鄱陽県伯。 東晋の朝廷に仕え、蘇峻の叛乱討伐に大功を挙げる。 その後も内外の官を歴任し、高い信頼を受けた。 政治 7 地方官から朝廷の大官まで務める 政略 7 王敦にも屈せず、また人間関係も良好 戦闘 7 実戦指揮官として勇戦 戦略 7 各地を転戦し武官も歴任 人徳 8 孝にあつく人望が高い 忠誠 7 東晋朝廷に貢献 郷里の声望を担い、三呉の名族顧氏の底力を見せた。 朝廷からの信頼も厚かったが、地位を貪ることなく身を処した。 仏教をあつく信仰していたという。
25:★玉川雄一 2005/07/21(木) 21:33 紀瞻(キセン) 253〜324? 字は子遠、呉の尚書令紀亮の孫。東晋の散騎常侍、驃騎将軍、臨湘県侯。 呉の滅亡後は晋朝の地方官に出仕するが志を得られず帰郷し、顧栄らと行動を共にして陳敏を討つ。 のちに朝廷に召されて顧栄、陸玩らと共に洛陽に赴くが、永嘉の大乱を目の当たりにして南帰を図る。 司馬越の意を受けた裴盾の追っ手から逃れ、昼夜兼行で揚州にたどり着いた。 その後は司馬睿に仕えて東晋の重臣となり、叛乱討伐や石勒との戦いに功を挙げる。 帝からの信頼も篤く股肱の臣として重用されたが、王敦の乱鎮圧後に病死した。 政治 8 侍中、尚書として有益な建言を多数行った 政略 7 明帝からは社稷の臣の第一と信頼された 戦闘 6 具体的な内容は不明だが戦果は少なくない 戦略 7 周馥、華軼、石勒、王含らを討ち勝利を収めた 人徳 8 物静かで教養もあり信望も厚かった 忠誠 8 帝からその忠烈を嘉された 文武の才を兼ね、また教養ある文章家でもあった。 呉王朝では代々高官を務めた家柄だったが、江南出身者の例に漏れず西晋王朝での立身は果たせなかった。 晋朝が南遷し江南士人の力を必要とするようになるとそれに応じて力を尽くした。 東晋王朝成立期の功臣の一人だといえる。 賀循(ガジュン) 260〜319 字は彦先、呉の中書令賀邵の子で賀斉の曾孫。東晋の太常、開府儀同三司。 父が孫晧に殺されたために家族ごと流刑になっていたが、呉の滅亡で会稽に帰る。 地方官として召されて治績を挙げ、一時西晋の朝廷に入るが石冰の乱討伐のため再び江南に帰った。 陳敏の乱ではその招きを断り、のちに司馬睿の麾下に入り死去した顧栄の後任として参謀役を務め、 成立直後の東晋王朝の諸制度を定めるのに大きく貢献した。 政治 8 東晋王朝の祭礼を初めとする諸制度を定めた 政略 8 顧栄の後任として司馬睿をよく補佐し信任を得た 戦闘 3 実戦経験は不明 戦略 5 華軼討伐に何らかの形で功を挙げた 人徳 8 清貧で慎み深く当世の儒宗(儒学の大家)と称された 忠誠 8 死の間際まで朝廷に仕えた 東晋王朝成立期に活躍した江南系士人の一人。 あるとき、賀循は司馬睿と対談していて呉の時代の話となった。 司馬睿がふと「孫晧は焼けた鋸で賀という者の首を切ったそうだが、誰のことだったかな」と尋ねたが、 賀循が答える前にそれが賀循の父の賀邵のことだったと思い出した。 賀循は「父は無道に遭い、私にとってその痛みは深く、お答えできなかったのです」と涙を流したので、 司馬睿は己を深く恥じて三日の間引きこもってしまったという。
26:★玉川雄一 2005/07/21(木) 21:44 薛兼(セツケン) ?〜322 字は令長、呉の光禄勲薛瑩の子で薛綜の孫。東晋の太常、散騎常侍、安陽郷侯。 若き日には紀瞻、閔鴻、顧栄、賀循らとともに「五儁」と号した。 洛陽に入って張華に認められ、司馬越から転じて司馬睿に仕える。 太子(のちの明帝・司馬紹)少傅となり、祖父より三代続けて太子の傅役を務めたと賞賛された。 政治 8 官僚として累進し、丹楊尹や尚書まで務めた 政略 7 太子の傅役として信任を得た 戦闘 2 実戦には関わらず 戦略 4 強いて言えば参軍などの経験があるくらい 人徳 7 若い頃から名声があった 忠誠 7 朝廷によく仕えその死を悼まれた 祖父、父は呉で、当人は東晋でと三代に渡って太子の傅役を務めた珍しい家系だが、 それはすなわち帝室からの信頼の篤さを示しているとも言える。 (ただし父の薛瑩は一時期孫晧から不興を買っていた) 明帝・司馬紹は太子時代から薛兼に指導を受けていたが、 即位してこれからもというときに薛兼を失った。彼を悼んだ詔書は哀惜に満ちている。 とりあえずこんなところで。 西晋王朝が『八王の乱』『永嘉の乱』で崩壊した際、 江南で再起を図る司馬睿(即位して東晋初代元帝となる)に対して、 地元の名士連中は力を貸すのと引き替えに政権参画を目指しました。 当初のまとめ役である顧栄(>>24)の存命中は良好な関係にあったのですが、 彼の没後に宰相・王導らの巧妙な分断策により北方から亡命してきた士人達が ヒエラルキーの上位に入り込んでくることになります。 それを憂えた周玘(>>23)らの抵抗もむなしく抑えられ、 この後東晋王朝において旧孫呉系の人物は政権トップからは離れてゆくことになります。 しかし顧衆(>>24)やその他にも陸曄、陸玩兄弟(陸遜の傍系の子孫)などのように 中堅の官僚として名を残した人物もいたりします。
27:雑号将軍 2005/07/21(木) 22:32 こ、これは、まさにもう玉川様にはひれ伏すばかりにござりまする…。玉川様は三国志を極め、さらには晋まで極めておられるとはっ!本当にいろいろとご教授頂きありがとうございます。 今見ると、かなり呉の名将、名文官の子孫って、晋に仕えているんですね。
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