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☆東晋ハイスクールの設定を真剣に考えるスレ☆
18:★玉川雄一2005/07/20(水) 20:20AAS
周處(シュウショ) 236〜297
字は子隠、呉の周魴の子。呉からその滅亡後は晋に仕える。
才能はあったが権力者を容赦なく弾劾したので忌避され、
齊萬年の叛乱討伐に際し寡兵での戦闘を強要されて戦死。
政治 7 辺地の慰撫、訴訟の決裁、綱紀の粛正に才を発揮
政略 3 容赦ない弾劾は正しいが賢い生き方ではなかった
戦闘 7 寡兵にて追いつめられてからの奮戦が光る
戦略 6 掣肘を解かれたならば実力発揮の可能性ありとの証言も
人徳 3 若い頃は嫌われ者だった。のち心を入れ替えたが剛直さが命取りに
忠誠 7 忠誠心がかえって敵を作るタイプ
旧江南系の名士は晋朝中央において何かと風当たりが強かったが、
彼の場合は少なからず自業自得であるともいえる。
ちなみに著作を残しており、『風土記』は当時の風俗を伝える史料となった。
また彼の墓が発見され、副葬品のアルミニウム合金がオーパーツだと話題になったが、
どうやら後の時代に盗掘された際に混入したらしい銀製品だったとか。
周處伝(晋書巻五十八)の抄訳
周處は字を子隠、義興陽羨の人。父の周魴は呉の[番β]陽太守。周處は早くに父を喪ったが、長じても身を慎むことなく郷里では嫌われていた。
時に義興の地には民を苦しめる虎、蛟(みずち)、そして周處の「三横」があり、周處はその内で最も害悪が酷かったという。周處は他の二横の退治を試み、まず虎を討ちついで蛟とは三日三晩の死闘の末ようやくこれを仕留めることに成功した。しかし郷里では周處がもう死んでしまったと思って喜び合っており、周處はここで自分が人々に嫌われているのに気付く。そこで行いを改めるべく陸機、陸雲兄弟を訪ね「行いを改めたいが、年齢も過ぎたことだしもう無理なのではないか」と嘆くと陸雲に「今からでもけして遅くはない」と諭されて一念発起して学を志し、呉に仕えて東観左丞、ついで無難督となった。
(この「三横」と陸雲に諭されるエピソードは晋書の伝にも世説新語にも収録されている。しかし世説新語の解説に拠ればこの事件は周處が呉に出仕する以前のこととされており、陸機の年齢から推察して真偽のほどは少々疑わしいともいう)
呉が降伏した際に、進駐してきた王渾に皮肉を言われた際には逆にやりこめたというエピソードが伝わる。その後晋に出仕し、新平、廣漢らの太守を歴任する。羌族を慰撫し、三十年来滞っていた訴訟を一朝にして解決するなど治績を挙げた。母が老いたことで一時帰郷するが、楚国の内史に召されて任官する前にまた散騎常侍にも徴せられる。周處はより下級の役ではあるが敢えて前者を優先し、楚国の混乱した民情を整え、その後改めて散騎常侍の徴に応じたことで賞賛を得た。
その後御史中丞に転じたが、“およそ糾劾するところ寵戚を避けず”という徹底ぶりが彼の命取りとなった。梁王の司馬[月彡](司馬懿の子)はかつて法を犯し、それを周處に弾劾されたことを怨んでいたのだが、296年に陝西でテイ族の齊萬年が叛乱を起こす。“朝臣悪處(周處)強直、皆曰「處、呉之名将子也、忠烈果毅」”というから、周處は中原の士人から総スカンを受けていたらしい。「呉之名将子」というのも当然当てこすりや褒め殺しの類だろうし、「忠烈果毅」に至っては却ってその裏に隠された諸人の恨みが見えるようでもある。この時、かの孫秀(孫匡の孫で、呉から晋に亡命していた)が老母を理由に辞退してはどうかと勧めたところ、周處は敢然としてこれを断り「忠孝を完全に両立することはできず、まして一度母のことで君命を辞しているのだ。今日これが我が死に所である」と言い切った。これを聞いた齊萬年は、「周府君(周處)については、かつて新平太守だったころにその人となりを知っている。才は文武を兼ね、もし専断を許されるならばこれに当たることはできないだろう。しかし他人の掣肘を受けるならば、我らが擒になる」と言ったという。果たして296年11月、討伐軍は征西大将軍都督関中諸軍事の司馬[月彡]を総帥とし、安西将軍夏侯駿(夏侯威の子)、そして建威将軍周處が派遣されることになった。中書令の陳準(陳泰の族子か。魏書陳羣伝末尾の裴註『陳氏譜』参照)は「夏侯駿、司馬[月彡]は貴族ではあるが将率の才はなく、進んで名を求めることもなければ、退いたところで咎を畏れることもないだろう。周處は呉の人で忠勇果勁、恨みを受けていて助ける者もなく、必ずその身を喪うだろう。孟観(周處戦死後、討伐軍の主力となる)に精兵を与えて周處の前鋒とすれば必ず敵を破れるが、そうでなければ司馬[月彡]は周處を先駆させ、必ず敗れるだろう」と朝議で論じたが容れられることはなかったのだった。
明けて297年1月。齊萬年の軍は梁山に屯し、その数七万。夏侯駿は周處にわずか五千でこれを討つよう逼(せま)った。周處は無謀だと諫めたが司馬[月彡]は重ねて周處に進軍を命じる。振威将軍盧播、雍州刺史解系らとともに六陌に齊萬年を攻めることになったが、周處の軍は食事を与えられておらず、その上で司馬[月彡]は速やかに進撃することを促した。しかるに後続の軍はなく、周處は覚悟を決める。辞世の詩を賦すと戦闘を開始し、日没まで戦い斬首した敵は万を数えるにのぼった。弦は絶たれ矢は尽きたが盧播、解系の援護はなく左右の者は撤退を勧めたが、「将として命を受けた身は進むことはあっても退くことはなく、負け戦とはなったが我は大臣、国に殉じるのみ!」と言い放つと力戦して没した。周處は平西将軍を追贈され、多くの土地を賜ることになり、また老母には終生保護が与えられることになったという。なお齊萬年の乱はなおも続き、299年1月に孟観によってようやく鎮定されるのだった。
周處はいくつかの著作も残しており、『風土記』は当時の風俗を伝える史料となった。(「周處」または「周処」「風土記」でネット検索すると色々とヒットするので参照あれたし)
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