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☆東晋ハイスクールの設定を真剣に考えるスレ☆
19:★玉川雄一 2005/07/20(水) 20:24 周訪(シュウホウ) 260〜320 字は士達、呉の左中郎将周敏の子で威遠将軍周纂の孫。 東晋の安南将軍、持節都督梁州諸軍、梁州刺史、尋陽県侯。 はじめ県吏となり、陶侃と親交を結んでその子陶瞻に自分の娘を嫁がせた。 のちに司馬睿に仕えて将として各地を転戦し、 華軼、杜弢(トトウ)、杜曾、第五猗(ダイゴイ)らの叛乱を次々に平定した。 王敦と対立しつつも北伐を企図していたが、果たせずに死去した。 政治 7 農業を奨励するなど行政にも手腕を発揮 政略 7 野心家の王敦を抑え得る存在感を持っていた 戦闘 9 実戦指揮官として勇戦を重ねる 戦略 8 司令官としても優秀で北伐まで視野に入れていた 人徳 8 謙虚にして威風あり士衆から心服された 忠誠 8 成立期の東晋朝廷を軍事面で支えた 彼の伝には戦歴が詳細に記録されている。戦術レベルでの勇武機略もさることながら 大局的な戦略眼も持ち合わせており、『中興の名将』の名は伊達ではない。 荊州の混乱を鎮めて襄陽に駐屯し、のちに叛乱を起こすことになる王敦も 彼の存命中は事を起こすことはできなかった。 周訪の側でも王敦を掣肘しつつ中原回復を目指すなど朝廷への忠心はあつく、 その死は元帝・司馬睿をいたく嘆かせたという。 余談ながら、周訪は戦闘中に矢を受けて前歯が(上下とも)折れてしまっていた。 陶侃(トウカン) 259-334 字は士行、呉将陶丹の子。荊蛮の血をひくともいう。 東晋の侍中、太尉、使持節都督荊江雍梁交広益寧八州諸軍事、荊江二州刺史、長沙郡公。 貧困の中で張華に認められ、劉弘の配下として荊州を転戦する。 累進して長官職を歴任し、王敦、蘇峻の叛乱平定に協力する。 のちに「西府」を形成して朝廷とは微妙な関係を保ちつつ荊州を治めた。 政治 8 実務能力に裏打ちされた治績を挙げる 政略 9 したたかな駆け引きで重鎮としての地位を全うした 戦闘 8 敗戦も少なくないが実戦指揮官として最終的な勝率は高い 戦略 9 長年に渡って軍を指揮し叛乱鎮圧から侵攻戦までこなす 人徳 9 謹厳を旨とし、明敏で決断力に富み民から慕われた 忠誠 6 かなりの野心家である一方晋の臣として己を律した 彼の治下は「落し物を拾って私物化する者はいない」ほどよく治まっていた。 軍功も著しくその力が何度となく東晋朝廷を救ったが、 蘇峻討伐への参加を渋るなど一筋縄ではいかない面もあった。 あと一歩で天に昇り損ねた夢を戒めとして野心を抑えていたという逸話もあり、 中原回復を志す人格者としての一面と合わせて複雑な性格の持ち主だったようだ。
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