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☆東晋ハイスクールの設定を真剣に考えるスレ☆
20:★玉川雄一2005/07/20(水) 20:27AAS
甘卓(カンタク) ?〜322
字は季思、呉の太子太傅甘昌の子で甘寧の曾孫。
東晋の鎮南大将軍、侍中、都督荊梁二州諸軍事、荊州牧、梁州刺史、于湖侯。
呉の滅亡後は野に下るが州に招かれて再び出仕し、
呉王司馬晏に仕えて石冰の乱(303〜304)を討つ。
陳敏の乱にはいったん与するが顧栄の説得で討伐軍に転じた。
江南に渡ってきた司馬睿に仕えて各地を転戦し梁州刺史として襄陽に駐屯するが、
王敦の蜂起に同心しなかったために暗殺された。
政治 7 善政を敷いた
政略 4 優柔不断が命取りに
戦闘 7 苦戦しながらも多くの敵を撃破
戦略 7 各地を転戦し功を立てる
人徳 7 外柔内剛にして民を慈しむ
忠誠 6 いまひとつ煮え切らない
戦功多く為政者としても資質を発揮したが、優柔不断さが命運を分けた。
王敦の乱ではその背後を衝ける戦力を有していたにもかかわらず
逡巡するうちに討伐の機を逸し、軍をかえし襄陽に引きこもってしまう。
兵を分散して備えを怠り、王敦の教唆をうけた襄陽太守周慮に暗殺されてしまった。
戴淵(タイエン) 260年代?〜322
字は若思。祖父は呉の左将軍・戴烈で、三国志呉書呉主伝赤烏13(250)年12月の項に陸凱と共に登場する。父は会稽太守の戴昌。
戴淵は若かりし頃は遊侠に興ずるなど奔放に生きていたが、陸機の知遇を得た。後に孝廉にあがって洛陽に入り、陸機によって趙王・司馬倫に推薦される。(戴淵この時30歳)
その際の登用には応じなかったが、後に東海王・司馬越の元で軍諮祭酒となり、外に出て予章太守、振威将軍を加え、義軍都督を領する。賊徒討伐に功があり、秣陵侯の爵を賜る。のち治書侍御史、驃騎司馬に遷り、散騎侍郎を拝す。
続いて江南に派遣されていた琅邪王・司馬睿に召されて鎮東右司馬となり、315年には叛徒である杜トウ討伐のために前将軍を加えられるが、出馬する前に乱は鎮圧された。
司馬睿が晋王となると尚書になり、さらに皇帝即位に際してのいくつかの加官は辞去したが、321年には仮節を与えられ、征西将軍、都督エン([六兄])豫幽冀雍并六州諸軍事、散騎常侍となり、軍を整えて合肥に駐屯することになった。
しかし翌322年、大将軍・王敦が叛乱を起こす。戴淵は驃騎将軍に任じられて都(建康)の防衛にあたったが、王敦に奪われた石頭の再奪取に失敗し、この敗北により王敦討伐軍は瓦解する。
王敦は勝者として朝廷に入ったが、帝室を打倒するのが目的ではなかった。挙兵の名分であった「君側の奸」であるチョウ協は既に敗死し、またいま一人の劉カイ([β鬼])は石勒のもとへ出奔していたのである。王敦は自ら丞相以下いくつかの顕職を兼ね、廷臣の再編成に着手する。
王敦の参軍である呂猗は才人ではあったがかつてその人柄を戴淵に忌避されていた。呂猗は意趣返しに讒言を行い、王敦によって戴淵は殺害されてしまう。彼の死は、「四海の士に痛惜せざるはなし」と惜しまれたという。
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