☆東晋ハイスクールの設定を真剣に考えるスレ☆
25:★玉川雄一2005/07/21(木) 21:33AAS
 紀瞻(キセン) 253〜324?

字は子遠、呉の尚書令紀亮の孫。東晋の散騎常侍、驃騎将軍、臨湘県侯。
呉の滅亡後は晋朝の地方官に出仕するが志を得られず帰郷し、顧栄らと行動を共にして陳敏を討つ。
のちに朝廷に召されて顧栄、陸玩らと共に洛陽に赴くが、永嘉の大乱を目の当たりにして南帰を図る。
司馬越の意を受けた裴盾の追っ手から逃れ、昼夜兼行で揚州にたどり着いた。
その後は司馬睿に仕えて東晋の重臣となり、叛乱討伐や石勒との戦いに功を挙げる。
帝からの信頼も篤く股肱の臣として重用されたが、王敦の乱鎮圧後に病死した。

政治 8 侍中、尚書として有益な建言を多数行った
政略 7 明帝からは社稷の臣の第一と信頼された
戦闘 6 具体的な内容は不明だが戦果は少なくない
戦略 7 周馥、華軼、石勒、王含らを討ち勝利を収めた
人徳 8 物静かで教養もあり信望も厚かった
忠誠 8 帝からその忠烈を嘉された

文武の才を兼ね、また教養ある文章家でもあった。
呉王朝では代々高官を務めた家柄だったが、江南出身者の例に漏れず西晋王朝での立身は果たせなかった。
晋朝が南遷し江南士人の力を必要とするようになるとそれに応じて力を尽くした。
東晋王朝成立期の功臣の一人だといえる。

 賀循(ガジュン) 260〜319

字は彦先、呉の中書令賀邵の子で賀斉の曾孫。東晋の太常、開府儀同三司。
父が孫晧に殺されたために家族ごと流刑になっていたが、呉の滅亡で会稽に帰る。
地方官として召されて治績を挙げ、一時西晋の朝廷に入るが石冰の乱討伐のため再び江南に帰った。
陳敏の乱ではその招きを断り、のちに司馬睿の麾下に入り死去した顧栄の後任として参謀役を務め、
成立直後の東晋王朝の諸制度を定めるのに大きく貢献した。

政治 8 東晋王朝の祭礼を初めとする諸制度を定めた
政略 8 顧栄の後任として司馬睿をよく補佐し信任を得た
戦闘 3 実戦経験は不明
戦略 5 華軼討伐に何らかの形で功を挙げた
人徳 8 清貧で慎み深く当世の儒宗(儒学の大家)と称された
忠誠 8 死の間際まで朝廷に仕えた

東晋王朝成立期に活躍した江南系士人の一人。

あるとき、賀循は司馬睿と対談していて呉の時代の話となった。
司馬睿がふと「孫晧は焼けた鋸で賀という者の首を切ったそうだが、誰のことだったかな」と尋ねたが、
賀循が答える前にそれが賀循の父の賀邵のことだったと思い出した。
賀循は「父は無道に遭い、私にとってその痛みは深く、お答えできなかったのです」と涙を流したので、
司馬睿は己を深く恥じて三日の間引きこもってしまったという。
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