下
☆東晋ハイスクールの設定を真剣に考えるスレ☆
8:★ぐっこ 2002/02/04(月) 00:52 [sage] 情報ありがとうございますー! イロイロ調べたり聞いてまわったんですが、串かNISの可能性大です…。 いちおう串は外したんですが、まだ続くようだと、ノートンが悪さしてるってことですね…。 皆さんは大丈夫でしょうか…。 長文を投稿する前に、必ず文章はテキストで置いといたほうがイイかもです!
9:玉川雄一 2004/03/05(金) 11:47 [sage] 俺専用覚え書き。 王導の字は「茂弘」だからあだ名は「モコちゃん」ね。
10:★玉川雄一 2004/04/01(木) 01:49 ■A.D.0279-0280 討呉戦役バトルオーダー■ 【晋軍】 ・司馬[イ由](琅邪王、鎮軍大将軍、仮節都督徐州諸軍事)…下[丕β]より[シ余]中へ 劉弘(琅邪相。劉馥の孫とは別人か)、王恆(長史) ・王渾(安東将軍、使持節都督揚州諸軍事)…寿春より江西へ 周浚(揚州刺史)、何ヲ(別駕)、陳慎、劉彪(ともに参軍)、張喬(都尉) 孫疇(司馬)、張翰(討呉護軍)、李純(殄呉護軍)、薛勝、蒋班 ・王戎(建威将軍、豫州刺史)…武昌へ 羅尚、劉喬(いずれも参軍) ・胡奮(平南将軍)…夏口へ ・杜預(鎮南大将軍、都督荊州諸軍事)…江陵へ 樊顯、尹林、搆\(いずれも参軍)、周奇(襄陽太守) 管定、周旨、伍巣(いずれも牙門) ・王濬(益州刺史、龍驤将軍、監益梁二州諸軍事→平東将軍、仮節都督益梁二州諸軍事)…巴東より長江を下る 唐彬(廣武将軍、巴東監軍)、范通(護軍)、何攀(参軍) ・賈充(持節大都督)、楊済(副都督、行冠軍将軍)…襄陽から項へ前進 石崇(城陽太守)、張光(牙門将)…所属は不明ながら功績を挙げた
11:★玉川雄一 2004/04/01(木) 02:01 【呉軍】 蔡機(某所の督)…王恆に捕らわれる 諸葛靚、孫奕…司馬伷に降伏 尋陽:周興(武威将軍)…王渾軍に捕らわれる 孔忠(牙門将) 高望:兪恭…李純に敗れる 版橋:張悌(丞相)、孫震(大将軍)、沈瑩(丹楊太守)…いずれも戦死(張悌と孫震は捕殺?) 陳代(q武将軍)、朱明(平虜将軍)…王渾軍に降伏 楊雍、孫述(武昌督)、劉朗(江夏太守)、孟泰(牙門将)…王戎軍に降伏 孫歆(楽郷都督?、驃騎将軍?)…周旨に捕らわれる(洛陽へ送られる?※1) 江陵:伍延(江陵督)…戦死 建平:吾彦(建平太守)…堅守を続け孫晧降伏後に投降 丹楊(※2):成紀(丹楊監)…王濬軍に捕らわれる 西陵:留憲(西陵都督、鎮軍または鎮南将軍)、成璩(征南将軍)、鄭廣(西陵監)…いずれも戦死 宜都:虞忠(宜都太守)…戦死 夷道:陸晏(夷道監)…戦死 樂郷:陸景(水軍都督)…戦死、施洪(平西将軍)…王濬軍に降伏 虞[日丙](持節、武昌以西都督)…晋軍に降伏 張象(遊撃将軍)…王濬軍に降伏 陶濬(鎮南大将軍、荊州牧)…武昌より後退し再迎撃を企図するが失敗、のち降る? 滕脩(使持節都督広州軍事、鎮南将軍、広州牧) …郭馬の乱鎮圧に赴いた広州から引き返す途上で巴丘にて孫晧降伏を知り自らも降伏 閭豊(広州刺史)、王毅(蒼梧太守)、陶璜(使持節都督交州諸軍事、前将軍、交州牧) …現地にて孫晧降伏の報を受け自らも降伏 何植(司徒)、孫晏(建威将軍)、薛瑩(光禄勲)、胡沖(中書令)、陸機(牙門将)、周處(無難督) 陶抗(太子中庶子)、陶侃(鄱陽県吏?)、顧栄(黄門侍郎、太子輔義都尉)…いずれも晋に降る ※1 まず王濬が孫歆のものだという首を送ってよこしたが、 後に生け捕りにされた孫歆当人が護送されてきたため(王濬は)洛陽中の笑い者になったという記述がある。 ※2 侵攻路の地理的にみて、いわゆる建業らの属する長江下流の丹楊郡とは別だと思われる。
12:那御 2004/04/01(木) 14:19 もはや討呉戦役の参戦武将に関しては玉川様の記述に非の打ち所が無いため、 戦役の補足でもしましょう・・・ この戦は、これまで繰り返されてきた局地的な小競り合いではなく、 総勢20万の軍勢による「完全決着」を狙った大攻勢であった。 司馬炎がこの侵攻に踏み切ったのは、その年の夏に広州で勃発した郭馬の乱によって、 呉国内がこれまでになく混乱していたことに起因する。 郭馬が反乱を起こしたのには、合甫太守であった脩允の病死のために行われた軍の再編によって、 先代からともに戦ってきた兵士たちが配属変更になったことに憤りを感じたためであり、 同僚の何典、王族、呉述、殷興らの武将らがこれに追従した。 この反乱は当初は南方守備部隊による小規模反乱に過ぎなかったが、 呉帝孫皓が広州での課税強化を布告したために、これに反発した広州の人民もまた、 郭馬の軍勢に加わり、その兵力は著しく増加、最終的には広州全土での大反乱へと発展した。 孫皓はこれを鎮圧すべく、南方戦線へと兵力を割いたが、 これによって生まれた北方戦線の層の薄さを晋の都督荊州諸軍事杜預に見抜かれ、 司馬炎の決断を促すこととなった。
13:★玉川雄一 2004/04/01(木) 23:06 那御さんフォローさんくす。 “郭馬の乱”を討呉作戦発動の直接的な要因とするならば、 間接的なあるいは前提条件ともいえる要因は“河西鮮卑動乱の鎮圧”にある。 晋王朝成立よりこのかた河西(黄河のオルドス地方)に居住する鮮卑族の動勢は不穏であり、 ことに270年代に入ってからは晋軍と度々激突を繰り返すことになった。 270年 秦州刺史胡烈、万斛堆で鮮卑軍に敗死 271年 涼州刺史牽弘、青山で北地胡に敗死 274年 鎮西将軍司馬駿、金城に来寇した乞文泥を斬る 275年 禿髪樹機能が来降。西域戊己校尉馬循、鮮卑を討つ 276年 司馬駿、北胡を討ち渠帥の吐敦を斬る 鮮卑の阿羅多が来寇するが馬循がこれを撃破する。“斬首四千、獲生九千” 277年 樹機能が背き、平虜将軍文俶がこれを破る 278年 涼州刺史楊欣、武威で若羅抜能に敗死 279年 樹機能が涼州を攻略するが、討虜護軍馬隆がこれを討ち涼州を奪回 馬隆の涼州奪回は厳密には討呉軍出征の後のことになるが、 この年ごろには既に南方へ大軍を発する余裕を持つまでに情勢は好転していたのではないだろうか。 これ以降、涼州方面は引き続き駐留を続ける馬隆の活躍によりしばしの平穏を得ることになる。
14:玉川雄一 2004/04/02(金) 08:20 そいやふと気になったのですが、 呉が晋に降伏した後に郭馬はどうなったんでしょうね。 基本的に呉の支配層は引き続き任用されたようですが、 背く対象が崩壊した郭馬の身の置き所はいったい・・・? 滕脩らが改めて広州に入ったらはいそうですか、と 矛を収めて事が済んだものなのかしら。 あるいは晋の保護を求めて旧呉領を脱出するという選択肢もあっただろうけど、 行き場をなくして結局滕脩に討伐されたとかだったら悲惨だなあ・・・
15:那御 2004/04/03(土) 12:41 この当時から鮮卑の力は強大でしたからね・・・ 永嘉の乱で西晋を滅亡に追いやったのは匈奴であったとはいえ、 最終的に五胡十六国を制した北魏のルーツも鮮卑でしたし・・・ で、郭馬ですが、ようわからんですねw 「〜〜,命交州牧陶璜部伍所領及合浦﹑鬱林諸郡兵,當與東西軍共擊馬.」 ってのがあったんですが、よ〜く考えたらこれってあくまでも『攻撃』の意であって、 『討った、殺した』の意味じゃないですし・・・ でも鎮圧されたのは確かであり、相手は孫皓だから、生存は微妙・・・
16:★玉川雄一 2004/04/03(土) 21:35 あれ、郭馬の乱って呉軍によって鎮圧されたんでしたっけ。 滕脩と陶コウらで挟撃をかけたとまではありますが、その後はどうなったのかしら。 というのも、晋書滕脩伝に 「廣州部曲郭馬等為乱、晧(孫晧)以脩(滕脩)宿有威恵、為嶺表所伏、 以為使持節、都督廣州軍事、鎮南将軍、廣州牧以討之。」 とあり、そのすぐ後に続いて 「未克而王師伐呉、脩率衆赴難。至巴丘時晧降、乃縞素流涕而還、 與廣州刺史閭豊、蒼梧太守王毅各送印綬〜」 となっています。これだと、郭馬の討伐が終わる前に晋軍の総攻撃を知り、 長江方面へ引き返したと読めますよね。 そして巴丘まで到達したところで孫晧降伏の報を受け、自らも降ったと。 ちなみに晋書陶璜伝には郭馬の乱討伐に関する記述はありませんでした。
17:★玉川雄一 2005/07/20(水) 20:15 【参考資料】 玉川流晋代人物小伝。 2ちゃんの数値化スレに投下したネタなのでその辺お含み置きを。 吾彦(ゴゲン) ?〜310年代? 字は士則。呉の建平太守、のち晋の交州刺史、大長秋。 陸抗に見出され、建平太守として晋軍の包囲戦を戦い抜く。 晋に降ってからは各地の地方官を歴任し、交州を治めた。 政治 7 各地の地方官を務めて治績を挙げる 政略 7 余人を納得させる正論を説く 戦闘 8 武勇に優れる 戦略 7 建平防衛戦や交州平定に戦功あり 人徳 7 各地で威恩著しい 忠誠 8 呉を最後まで見捨てず、また晋朝にも貢献した 猛獣と格闘し、膂力絶倫とも称される一方で内政官としても有能で、 また孫晧や司馬炎にも憚ることなく直言したという。 寒門の出身のため、同郷の陸機・陸雲兄弟から侮られたこともあった。 陶璜(トウコウ) ?〜290年代? 字は世英、呉の交州刺史陶基の子。交州刺史、冠軍将軍。 呉に仕えて交州方面で活躍。のちに晋に降り、引き続き同地を治めた。 政治 7 南方統治のエキスパート 政略 8 不服住民までもよく手懐ける 戦闘 7 晋軍を撃破 戦略 7 交阯攻防戦での用兵が光る 人徳 8 民衆によく慕われた 忠誠 7 孫呉、西晋ともに尽くした つごう三十年に渡って南方統治に携わり、 父より数えて四世五人の交州刺史を輩出することになる。 なお、280年に晋の討伐軍を迎撃に向かったものの 一夜にして部下に逃げられたという陶濬は弟にあたる。
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