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964:海月 亮 2006/10/08(日) 00:11 鈍色の雲に赤みが射す黄昏の空の下、潘濬はその場に座していた。 「承明!」 「無事だったか!」 その姿に歓喜の声を上げる少女達。 しかし、当の潘濬は俯いたままだ。 「…御免なさい…」 その呟きに、責任感の強い彼女のこと、恐らくはこの不始末を関羽自らに裁かせるために現れたということだろう、少女達はそう思っていた。 趙累は駆け寄ってその手をとると、 「あんたが無事に逃げ延びてきたなら話は早い! 何、あんたなら必ず戻ってくると信じてたわ。大丈夫、この失敗は取り返すくらいわけない」 そう言って彼女を元気付けようとした。 元々頑固なこの少女は、度々関羽と衝突することも多かったが、それでもその強い意志と優れた内政手腕を高く評価していた関羽が江陵の守将として残したものだ。 その責務を完う出来なかったとはいえ、情状酌量の余地はいくらでもあるだろうし、こうしてやってきたということは敵の内情もすべて把握した上で来ているのだろう…趙累は、そこに一縷の期待をかけた。 しかし、彼女の期待はあっさりと打ち破られた。 「私がここに現れたのは……孫仲謀の代弁者としてなのよ…!」 「なん…だって…?」 その手を振り解かれたことよりも、趙累はむしろその言葉に大きなショックを受けた。 「貴様…ッ」 これほどまでないほどの赫怒の表情を浮かべ、関平がその獲物を手に歩み出る。 「江陵を手放したのみならず…あろうことか長湖部の使い走りか!」 「…待て」 飛び掛ろうとする妹を関羽が手で制する。 「姉さま!? 何故です!」 呆気にとられたのは何も関平だけではない。居並ぶ将士たちも、正面に立った潘濬ですらも、その関羽の行動を訝るかのようだった。 士仁、糜芳の例もあるように、関羽は軍の進退に関わるような失策を犯したものは決して許さない。 本来なら、潘濬が孫権の代理人として現れた時点でその剛拳で殴り飛ばしているだろう。趙累が先に飛び出してきたのも、先に飛び出して関羽の感情を和らげる意図もあったのだ。 だが、関羽はその気配も見せず…その表情は厳しいものであったが、奇妙に思えるほど静かでもあった。 「…話してくれ、長湖部長の口上を」 「………承知しました」 関羽に促されるまま、潘濬は持参した書状を広げると、その内容を堂々とした口調で読み上げ始めた。 関雲長に告ぐ 貴女は長湖・帰宅部連合の盟において定められた約定を、己の一存のみにおいて破り、我々の管理する備品を無断で持ち出し、あろうことかその貴重な品を使い捨ての如く放置するなど言語道断。 先の傲慢なる宣言と合わせ、帰宅部連合に対する南郡諸棟の貸与を無効とし、我らの領有に戻すものとする。 但し、このまま襄陽・樊を奪取するため蒼天会との戦闘を継続するとあらば、同盟修復の意思ありとみなし、我らは後方より帰宅部連合を支援する… 関羽は無言だった。 しかしその瞳は、遠く漢中の方向を向いている。 「…雲長様」 潘濬の言葉にも、関羽は動かない。 しかし彼女は、なおも言葉を続ける。 「江陵には尚、貴女の帰りを待ちわびている子達が、長湖部に人質として囚われているのです。彼女達も、貴女がこのまま襄陽へ戻られるということであれば、彼女らを解放して随行を許すとのこと」 趙累たちも、何故彼女がこの場に送られてきたのかを漸くにして悟った。 恐らく長湖部はそういう不穏分子を宥めるため、その中心的な人物である潘濬に関羽を説得させるために差し向けてきたのだろう。 潘濬は胆も座っており、弁も立つ。そして、何より… 「お願いです! 彼女らのために、何卒長湖部の申し出に応じていただきますように!!」 額を叩き割らんかの勢いで叩頭する潘濬に、少女達にもその苦衷を窺い知らずにいれなかった。 恐らくは潘濬も、命がけの覚悟で此処に現れたのだろう。 責任感の強い彼女であれば、此処で関羽の一身を救うことが叶うのなら、あとは全責任をとって学園を離れるつもりなのかも知れない。 直前まで怒りのあまり、目の前の少女を八つ裂きにしてやろうかというほどの気を放っていた少女達も、その姿をやるせない思いで眺めていた。 そしてそれと同時に、参謀格の趙累には、江陵を奪い取った長湖部の軍勢のシルエットが浮かび上がってきた。 いくら不安要素があったとて、あるいは長湖部側にどれほどの準備があったといえ、これほどの短時間のうちに堅牢で知られた江陵が完全に制圧されている…恐らくは、既に夷陵周辺も。 甘寧、朱治といった"仕事人"を欠く長湖の主力部隊に、呂蒙以外でこれほどの仕事をやってのける人間がいたことも驚愕すべき事実だが…さらに言えばこれは、それほど長湖部が本気であることを示唆していた。 「…姉さま」 関平の言葉にも、関羽は応えようとしない。 しばしの重苦しい沈黙を破ったのは、関羽の呟きだった。 「…我が主、漢中の君劉玄徳よ」 関羽は漢中の方へ向き直ると、その空に向けて拱手する。 「関雲長、義姉上の裁可を仰がず、我が一存にて孫権に断を下すことを…お許し下さい」 「…っ!」 その言葉に、潘濬は驚愕し…その意図を悟った。 次の瞬間、関羽はこれまで通りの覇気と威厳に満ちた表情で、全軍に号令する。 「行くぞ、目指すは長湖部長孫権の打倒、それひとつだ!」 「雲長様!」 取りすがろうとする潘濬を手で制する関羽。 振り向いた関羽は、一転してその表情を和らげる。 「…承明、貴女はなんとしてでも生き延びなさい…そして、江陵のことは貴女に託すわ。どのような結果になろうと、最後まで江陵の子たちのために尽くしなさい。それが私が貴女に与える刑罰」 「…雲長様…」 「此処からは、私が私自身に落とし前をつける戦い。貴女には関係のないことよ」 そのまま振り向きもせず、関羽は再び行軍を開始する。 あとに続く少女達もまた、無言でそのあとに続いていく。そこにどんな死地が待ち受けているかも知らず…いや、例え其処に破滅の結末しか見えていなかったとしても、彼女たちは関羽に付き従うことこそ本懐として、何も言わず従って行くことだろう。 潘濬もその姿を、振り向いて見ることは出来なかった。 そのかつての主の姿を見やることもなく、彼女は溢れる涙を拭う事もせず、天に向けて拱手する。 「雲長様…どうか、御武運を…!」 彼女は、ただそれを祈らずに居れなかった。
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