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293:岡本 2003/06/18(水) 23:26 ■天誅−前編−■ (2)ホワイト・サージ 各校区生徒会会長の成立のように、ホワイト・サージは当時、間違いなく蒼天学園の流れを幾たびも揺 るがす潮流であった。地理的にも蒼天学園の中心たる司隷校区をその勢力範囲に押さえており、いか なる群雄よりも蒼天学園の歴史の鍵を握りうる位置にいたと言えなくも無い。だが、曹操はおろか 菫卓、袁紹、袁術のようなある種のカリスマを備えた指導者を持たず拠ってたつ政治方針も 持たなかったことから当時のどの群雄から見ても脅威といってよい戦闘力を有していたものの、 勢力基盤となる地区生徒達(特に絶対数の多い文化系生徒達)の抱きこみはまったく進まず “群党”の域を越えることは最後まで無かった。政情不安であった頃は後に生徒会の五剣士のひとり となる徐晃が楊奉の旗下にいたように、腕っ節に自身のある連中が集まってきてはいたが、 だんだん各地の群雄が勢力をまし、政情が安定してくるにつれ、文にも優れたような器量のあるもの は離れ、単なる喧嘩屋・チーマーの集まりとなっていた。 ホワイト・サージの幹部たちもそういった安定化の流れは察せられなかった訳ではなく、もっとも目端の 効く楊奉がいち早く蒼天会の擁立に動いたように、李傕・郭レの政権争いに際には楊奉をつてに 胡才・李楽・韓暹(そして匈奴高校の去卑)が両者の餌とされた蒼天会の実働部隊として李傕・郭レに 対抗し、“錦の御旗”側としての転身を図ったのである。この抗争で胡才が飛ばされたように、 ホワイト・サージは勢力で勝る李傕・郭レを相手にかなりの健闘を示し、蒼天会の生存には (文字通り生き延びただけという話もあるが)その戦闘力を生かして一方ならぬ貢献を果たしたといえる。 だが、その戦闘力を嵩に着て、山出し同然の李楽を筆頭に思慮の足りない無茶な発言や私欲に 駆られた暴力行動をとることが多く、蒼天会の面々からは、所詮は共に語るに足りない腕っ節のみが 自慢の不良の集まりと敬遠されていた。まだ目端の効いた楊奉・韓暹は何とか学園のシンボルたる 蒼天会会長を手中に納め続けることであわよくば権力の掌握を狙い、方向転換を考えて喧嘩屋から 脱却しきれない李楽と袂を分かった。これは李傕・郭レと結んだ李楽との内部抗争へ発展し、李楽を 飛ばし李傕・郭レを出し抜くことに成功したかと思われたのだが、戦闘力のみで定見を持たない集団と いう宿命からは逃れられず、結果、兗州校区で勢力を拡大していた曹操に、菫昭を伝手としての 蒼天会との接触を許し、学園暦30年の4月には“曹操の蒼天会会長擁立”という形で全てを攫われて しまうことになる。 許昌棟へ蒼天会を移そうとした曹操の行く手を遮ろうと当時“最強”とまで称された戦闘集団を率いて 楊奉・韓暹は戦いを挑んだ。しかし、所詮個人戦闘の足し算に過ぎない彼女らは、数を生かす 集団戦術に長けた曹操軍団の敵ではなく、当時本拠地であった梁棟を失い、同4月、徐州校区の 席巻を図って劉備と対峙し戦力の強化を求めていた袁術を頼って落ち延びることになった。 権力の座から元のならず者集団に落ちたショックも手伝って楊奉・韓暹は袁術の庇護のもと 徐州校区・揚州校区で“かつあげ・喧嘩”を日常茶飯事として暴れ廻り、公孫瓚・袁術とともに “第一級お尋ね者”として懸賞課外点数をかけられることになる。 ここでも、楊奉・韓暹はなんら政治方針・定見を持たず、もっぱら欲望のままに動静をきめる集団 であることを露呈する。 劉備の徐州校区生徒会長からの追い落としでは、徐州校区への勢力拡大を望む袁術と曹操に破れ 戦力再編のための基盤を必要としていた呂布(正確には陳宮)の思惑が一致していたため手を むすんでいたのであるが、袁術が蒼天学園全体を望む意志を明らかにしてくるにつれ様相が 変わってくる。翌5月、無謀にも袁術は蒼天学園連合生徒会会長を自称した。学園全体から つまはじきされて“賞金首”にされることを恐れた呂布は、袁術が友好締結に送った使者である 韓胤を蒼天会への誠意の証として階級章剥奪処分にふし、結果もともと信頼関係があったとも思えな い両勢力の仲が決定的にこじれ、呂布vs袁術の全面対決と相成った。袁術はこのときのためと飼っていた楊奉・韓暹も動員し、張勲・橋蕤を主将としたバイク・歩兵合わせて数百人の軍勢を七方面 から呂布を攻めさせた。後に戦国最強軍団と評されることになる呂布軍団も高順・張遼以外は 基本的に個人戦闘の足し算に過ぎず全戦力も100〜200人そこそこであったため、数に圧倒的に勝る 袁術軍団には劣勢となる。呂布に韓胤の処断を示唆した沛地区長の陳珪は、呂布にこの戦況の原因 を作り出した責任をとるよう詰め寄られるが、有名な離間の策を提案し戦況をひっくり返したのである。 陳珪曰く、 「楊奉・韓暹がにわかに袁術と同盟したのは、もともと定見があってのことではないので維持することは できません。もともと利と衝動で動く連中ですから、十分に利を示した書簡ひとつで操ることは可能 でしょう。」 以外に筆まめな(内容と論旨は子供じみているが)呂布は楊奉・韓暹に手紙を送り、戦利品の私物化を 認めたうえで内応を依頼した。 策を示唆した陳珪が呆れるほどあっさりと楊奉・韓暹はこの誘いに応じた。 守備兵力をも戦闘に使えるように可能な限り袁術軍団を下邳棟に近づけて呂布vs袁術の会戦は幕を 開けたのだが、両軍団の先頭が300mまで近づいたところで楊奉・韓暹の部隊は一斉に蜂起した。 まったく警戒していなかった他の部隊へ背後からの突撃を行い、乱闘の最中、その戦闘力を生かして 計10名の主将を飛ばした。突然の裏切りに混乱する袁術軍団へ同時に呂布軍団も突撃を敢行、 混戦が続く中、小沛棟からも劉備の援軍として20名ほどを率いた関羽が到着し、駄目押しの攻撃を しかけた。結果、7手のうち2手が寝返ったとはいえ数において勝る袁術軍の総指揮官たる張勲の 部隊を大破し、次席指揮官たる橋蕤を生け捕りにする大勝利に終わった。 大勝利の殊勲として楊奉・韓暹は、利や衝動で何とでも動く連中という評価を裏付けたことも意に 介せず増長することになり、徐州・揚州校区で働く略奪・暴力行為も悪化の様相を示すようになる…。
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