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517:海月 亮 2004/12/20(月) 22:05 「馬鹿なことを!」 解散の指示を出そうとした刹那、諸将から一斉に不満の声があがる。誰も皆、満面に怒気を浮かべ、もし後ろに立てかけてある大将旗が無ければ今にも飛び掛ってきそうな勢いである。突然のこの勢いにおろおろする駱統を他所に、卓に着いたままの陸遜は、何の表情も無くそれを眺めている。 怒気を露に不満をぶちまける諸将を制し、今まで事態を静観していた韓当が進み出た。 「伯言…あえて、こう呼ばせてもらうわ」 本来なら総司令ともなれば、「都督」の尊称で呼ばなくてはならない。いくら相手が下級生といえども、例外ではないはずで、まして韓当であればそのあたりの礼儀をきちんと弁えている。 それがあえて綽名を呼び捨てるという行為に及んでいるあたり、彼女もかなり腹に据えかねているものがあるとわかる。 「ここに居るのは、皆一様に長湖部の命運を賭け、一身を顧みない覚悟でやってきている娘たちよ。ましてや私や幼平、文珪なんかは、緒戦の恥を雪ぐため、玉砕も辞さない覚悟で居る。特に計略も無く、待機せよなんて言われて、収まりがつくと思う?」 「お気持ちは解りますが先輩、良くお考えになってください。ここで私達が無策のまま玉砕覚悟で決戦を挑み、僥倖にも勝利を得ればそれで良いかもしれませんし、そのほうが簡単でしょう。しかし、敗北は破滅に直結します。こちらで我々が持ちこたえ、その間に相手の破綻を見出し、そこを突く事が出来れば一戦にして、より安全に勝利を得ることが出来ます」 「しかし、その間に劉備たちが兵を引けば?」 「ありえないことだとは思いますが、そうなればこれ以上ない幸運です」 その一言に、場はどよめく。駄目だ、コイツはといわんばかりの嘲笑もあがる。陸遜の表情は相変わらずだったが、傍に立っていた駱統と、意見の為に正面に立っていた韓当はその変化に気付いた。 何かメモを取ろうとしていたのか、持っていたボールペンが…いやその根元、陸遜の両拳が震えていた。 次の瞬間、ボールペンは派手な音を立てて真っ二つに折れ、陸遜の形相は夜叉の如く豹変した。 「お黙りなさいッ!」 卓を叩いて立ち上がり、そう叫んで凄まじい形相で睨み付ける少女の迫力の前に、呆気に取られた諸将は思わずそちらを振り向いた。普段の彼女を知るものであれば、尚更にそのギャップで固まっている。 キャンプ以来、陸遜と親しくしている丁奉も、親友である駱統も、陸遜のそんな表情を見るのは初めてのことだった。 「私は一書生の身ながら、此度大命を拝して部長に代わって貴女方に令を下す立場にあります! これ以上の"異論"に対しては、何者であろうと、この大将旗の元に処断し軍律を明らかとします!」 凛とした良く通る声と、毅然とした態度には「虎の威を借る狐」なんて形容は出て来そうにない。その迫力に不覚にも怯んだ諸将は、未だ釈然としない表情をしながら、静かに退出していった。 ただ、陸遜当人と駱統、そして韓当の三名を除いて。 机に叩きつけていた右の掌からは、既に血が滲んできていた。慌てた駱統が薬箱を取りに部屋を飛び出したところで、ようやく韓当が口を開いた。 「…あなたにも、あんな表情(かお)が出来たのね」 「……まだ何か、御用ですか?」 昂ぶった感情がいまだに収まらないのか、陸遜の表情は険しい。陸遜の警戒はまだ解けない…そう感じた韓当は、不意に表情を緩めた。 「正直、納得がいかないのは確かよ。あなたが去年の夏合宿の一件以来、公瑾に嫌われていたのを知らないわけじゃない。でも、この局面においてあえてあなたの名前が出てきたことを考えれば…公覆も徳謀も、去年の赤壁の時にあえて公瑾に歯向かってみせて大略を成し遂げたことを思い出したのよ」 「えっ…?」 「最後の最後になって、やっと私にもそのお鉢が回ってきた、と受け取るべきなのかしらね」 韓当は自分のポケットからハンカチを取り出し、彼女の右手にそれを巻いた。戸惑う陸遜だったが、彼女の真意を察して、ようやく表情を緩めた。 目の端には僅かに涙も滲んでいたが、それは掌の痛みからではない。 「…ごめんなさい、です。私みたいな娘が来たことで…」 「そんなこと、言うものじゃないわ。で、私は…何をすればいい?」 「このままで構いません。私に対して諸将が不満を抱きつづけ、先輩を中心にしてまとまりを持っている状態を見れば、劉備さんの油断を確実に誘えます。その後は…」 「…勝算は、あるのね?」 小さく頷く。その目には、己のプランに対する絶対的な自信と、確信があった。 「かつて関羽さんが使おうとした発煙筒と、"風"を使います。この時期、必ず吹いてくる、春を呼ぶ嵐を」 陸遜の告げた一言に、韓当は納得のいった表情で頷く。 「!…そういう事…解ったわ。なら私は、あなたの思惑通りに動いてみる。このことはもちろん、口外無用よね?」 「はい…ご迷惑をお掛けします」 「いいのよ。けど、本当に"来る"の?」 韓当は、当然の疑問をぶつけた。微妙なずれはあるが、この時期にもお決まりの自然現象が起こる。それが長湖部にとって、確実な"春を呼ぶもの"になるだろう。 しかし、自然というものは気まぐれである。人間の小賢しい頭でコントロールできるようなものでないことは、ウォータースポーツに勤しむ彼女等にとってはわかりきったことであるが…。 「雲の流れ、長湖の波の動きを見る限り、間違いないと思います。流石にこればかりは、孔明さんといえども手出しできないと思いますから…期日は、来月の頭」 「一週間か…永いわねぇ」 冬と春の微妙な境目にあるこの時期の、まだ多分に寒々とした色を湛える茜空を眺めながら、韓当はそう呟いた。
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