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926:海月 亮 2006/06/04(日) 21:20 「…実にいい風じゃないか」 戦場に近いクリークの上。 その行動開始時間を水上で待つ蒋欽は、遠くその"予定地点"を眺めながら、そう呟いた。 銀に染めた髪を無造作に束ね、腰にはジャージの上着と共に鉄パイプを括り付け、威風も堂々と立つその姿は…かつて湖南の学区を我が物顔に支配していたレディース"湖南海王"のヘッドを張っていた彼女そのままだった。 「これから何か起こるにしては、なんとも拍子抜けじゃねぇか?」 「あたしにゃそう思えませんけどねぇ」 答えるは、傍らに座る、どんぐり眼で赤髪の少女…吾粲。 舳先に座っている所為以上に、元々大柄の蒋欽と小柄な吾粲の身長差は40センチ以上あるため、吾粲の姿は余計に小さく見えた。 「これから始まるのは、まさしく学園勢力図の情勢を一変させる戦いですよ? むしろ、この静けさのは不気味でなりませんよ」 「…そうともいえるな」 吾粲の表情は硬い。蒋欽にも、その理由は良く解っていた。 彼女達がこれから相手にするのは、学園最強の武神と名高い関雲長。 夏に戦い、結局打ち倒すことの叶わなかった合肥の剣姫・張遼と比べても決して劣らない…いや、今の学園内において、下馬評によれば関羽の将器は張遼を大きく上回るとさえ言われている。 (そんなバケモノじみた相手に、果たして長湖部の力は何処まで通用するのか…?) 長湖幹部会でも危惧されてきたことだが、前線に立つ命知らずな長湖部の荒くれたちにも、その懸念がないわけではなかった。 いや、むしろ実際前線に立ち、数多の戦いを経てきた蒋欽らのほうが、むしろその思いを強く抱いていたに違いない。 「…なぁ、孔休」 不意に名を呼ばれ、自分の頭のはるか上にある蒋欽の顔を見上げる吾粲。 「あたしはこの戦いで飛ばされるかもしれない。飛ばされないかもしれない」 その表情は、一見普段とまったく変わらない様に見える。 しかし吾粲には…その黄昏の陽を背にしている所為だったのかどうか…何処か悲壮な決意に満ちたもののように感じられていた。 「どんな結末になろうとも…必ず関羽は叩き潰す。そのために必要な力が足りないというなら、その不足分はお前の脳味噌で補ってくれ」 「…言われるまでもないですよ」 それきり、ふたりが目を合わせることはなかった。 暮れ行く冬の夕陽を浴びながら、その眼はこれから赴く戦場…その一点だけを見据えていた。 日が暮れかけてきたころ。 江陵からは孫権、呂蒙、孫皎を中心とした千名余の長湖部主力部隊が、夷陵からは陸遜率いる三百名が、臨沮には潘璋、朱然らの率いる五百名が、そして柴巣からは湘南海王の特隊を含む千名が、それぞれ行動を開始していた。 江陵陥落の報を受けた関羽が、漸くにして事態を確かめるために南下してきたのだ。その勢はおよそ五百、僅かに関平、趙累ら一部の旗本を引き連れて。 「こいつぁ大仰なことになってきたなー♪」 臨沮駐屯軍の先頭に立ちながら、ぼさぼさ頭を無理やりポニーテールにしている少女…潘璋が嬉々として言う。 「でも先…主将、いくらあの武神が相手とはいえ、相手五百に対してうちらその何倍で囲んでるんですか?」 それに併走しながら、狐色の髪をポニーテールに結った小柄な少女が問いかける。 少女…丁奉の言葉には、わざわざ関羽一人葬るために、長湖部の全力を傾ける必要があるのか、という不満も見え隠れしていた。 言い換えれば、関羽一人をそこまで恐れなければならない、その理由が理解できなかった。 潘璋は苦虫を噛み潰したような表情で「けっ!」と一言吐き捨てる。 「寝言は寝て言いな承淵! 相手は学園最強の武神サマだ、十倍投入してもお釣りなんか多分でねぇ!」 そして、なおも何か言おうとする丁奉の言葉を遮り、 「…確かに関羽を恐れないものはいねぇ。だがな、だからこそ今全力をかけて、ヤツを叩き潰さなきゃならない…! アイツは事もあろうに、公式の場で長湖部を…あたし達が背負ってきたものを侮辱したんだ。その落とし前もつけさせてやらなきゃなんねぇんだよッ!」 珍しく真面目な顔で言い切った。 これには丁奉も納得せざるをえない。いや、むしろ彼女にも痛いほどよく解った。 彼女達が守ってきた長湖部の名…それを背負う孫権を、わざわざ公的な場で「門前を守る犬にも劣る」と言い放った関羽。孫権に対する侮辱は、孫権に見出されて世に出た彼女達に対する侮辱でもある。 「今のあたし達には、武神に対する恐怖なんかねぇ…あの高慢ちき女に一泡吹かしてやろうってことしか頭にないんだよ!」 「…心得違いでした。あたしも、及ばずながら!」 「おうよ、期待してるぜぇ! あんたもなっ!」 その答えに、普段のふてぶてしい表情に戻って、口元を吊り上げる潘璋。その傍らにいたもう一人の少女も無言で頷いた。 それは紫のバンダナを銀髪の上に置き、そこからはみ出した前髪から、僅かに深い色の瞳が覗いている…不思議な雰囲気を持つ少女であった。 丁奉はその少女…といっても、恐らくは彼女よりもずっと年上なんだろうが…の姿に、ほんの数時間前初めてであったときのことを思い出していた。
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