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★しょーとれんじすと〜り〜スレッド★
292:岡本2003/06/18(水) 23:20
ご無沙汰しておりました。忙中閑ありと言い訳して、ひとつ投下します。
それもまだ前後編の前編のみですが...。
■天誅−前編−■
(1)白波五人女
蒼天学園暦29年6月に張角・張梁・張宝三姉妹によって引き起こされた黄巾事件は、蒼天学園生徒会
からすると主要3名の階級章が皇甫嵩・朱儁らの活躍で剥奪されたことにより1月足らずのうちにひと
とおりの決着は見た。だが、黄巾党の根絶をなしたわけでなく、また事件決着後も黄巾の蜂起に賛同
する者は後を立たず、各地で蒼天学園の現状に不満をもつ者達が跳梁跋扈し一大勢力をなすようになる。
一例としては黄巾の蜂起に呼応して中山・常山・上党・河内地区あたりを根城に周囲を荒らしまわった
サバゲー軍団、黒山軍(Black Mountain Force)がある。他にも著名な武闘派チーマーとしては同年9月
に河東地区白波峡谷あたりを根城に、元黄巾党の郭太を長として蜂起した”白き荒波(white surge)”がある。
集団戦術などどというべきものは持ち合わせていなかったのだが、元黄巾一党の中でも武闘派とか
精鋭と称されたいずれも劣らぬ荒くれ者が揃っており、柔弱化が末期症状を呈してした生徒会正規軍
と比較するとやたら喧嘩なれしており討伐は困難を極めた。
共同戦線を張っていた黒山軍(BMF)に対抗してホワイト・サージというハイカラな(死語)ネーミングをし、
白き波頭のエンブレムに基本装備はグリーンベレー風サバイバル仕様だったにも関わらず、
首領の郭太、主要幹部の楊奉、胡才、李楽、韓暹の5名は変に傾いた趣味をもっていたことから、
“白波五人女”として恐れられていた。彼女ら5名は初期のホワイト・サージと并州・司隷校区の執行部員、
風紀委員や生徒会鎮圧部隊との戦闘の際にヒーロー戦隊よろしく、以下の口上で見栄をきっていた。
(作者注:河竹黙阿弥“白浪五人男”の“稲瀬川勢揃いの場”の口上を元にしています。七五調です。)
郭太:
♪〜 問われて名乗るも おこがましいが、生まれは兗州 浜松在、十四の年から 親に放たれ、
身の生業も 白波の 沖を越えたる 夜働き、盗みはすれども 非道はせず、
人に情けを 掛川から 金谷をかけて 宿々で、義賊と噂 高札に 廻る配附の 盥越し、
危ねえその身の 境界も もはや十八に、人間の 定めはわずか 二十年、
十三校区に 隠れのねえ 賊徒の首領 黄天郭太 ♪〜
楊奉:
♪〜 さてその次は 江の島の 岩本院の 稚児あがり、
ふだん着慣れし 振袖から 髷も島田に 由井ヶ浜、打ち込む浪に しっぽりと 乙女に化けた 美人局、
油断のならぬ 小娘も 小袋坂に 身の破れ、悪い浮名も 竜の口 土の牢へも 二度三度、
だんだん越える 鳥居数、八幡様の 氏子にて 鎌倉無宿と 肩書も、島に育って その名さえ、
弁天小僧 楊奉 ♪〜
胡才:
♪〜 続いて次に 控えしは 月の武蔵の 江戸そだち、幼児の折から 手癖が悪く、
抜参りから ぐれ出して、旅をかせぎに 西国を 廻って首尾も 吉野山、
まぶな仕事も 大峰に 足をとめたる 奈良の京、碁打と言って 寺々や 豪家へ入り込み、
盗んだる 金が御嶽の 罪科は、蹴抜の塔の 二重三重、重なる悪事に 高飛びなし、
後を隠せし 判官の 御名前騙りの 忠信胡才 ♪〜
韓暹:
♪〜 またその次に 列なるは、以前は武家の 中小姓、故主のために 切り取りも、
鈍き刃の 腰越や砥上ヶ原に 身の錆を 磨ぎなおしても 抜き兼ねる、盗み心の 深翠り、
柳の都 谷七郷、花水橋の 切取りから、今牛若と 名も高く、
忍ぶ姿も 人の目に 月影ヶ谷 神輿ヶ嶽、今日ぞ命の 明け方に 消ゆる間近き 星月夜、
その名も赤星 韓暹 ♪〜
李楽:
♪〜 どんじりに 控えしは、潮風荒き 小ゆるぎの 磯馴の松の 曲りなり、人となったる 浜そだち、
仁義の道も 白川の 夜船へ 乗り込む 船盗人、波にきらめく 稲妻の 白刃に脅す 人飛ばし、
背負って立たれぬ 罪科は、その身に重き 虎ヶ石、
悪事千里と いうからは どうで終いは 木の空と 覚悟は予て 鴫立沢、
しかし哀れは 身に知らぬ 念仏嫌えな 南郷李楽 ♪〜
ホワイト・サージは近隣の太原地区、河東地区へ乱入し、抗争を繰り返して各種小規模サークルを半
ば強引に吸収して強力化し、とうとう司隷校区洛陽棟の生徒会正規軍でも手が付けられない勢力に成
長した。并州校区総代の張懿がホワイト・サージの鎮圧に失敗し飛ばされるにいたり、劉焉の建議を
うけて各校区「総代(=刺吏)」に代わってより権限の強化された「生徒会長(=牧)」を置くことを
決定したほどである。余談ではあるが、各校区の総代は校区の支配者というよりは、地区長の
監査役程度の権限しか持っておらず、さらには各校区正規軍の指揮権は地区長にあり、総代は
独立した軍事力を持っていなかったのである。
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