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414:岡本2004/06/13(日) 03:23
>玉川様、法全様
このような戦略画面ではやはりリアル画が映えますね。今後の展開が楽しみです。
試みに私もやってみました。
100 Kいったので絵自体は”学三うぷろだ”にあげてあります。


◆江陵棟攻防戦◆
世にいう“赤壁島の戦い”は、周瑜率いる長湖部・劉備の帰宅部連合の連合軍が圧倒的多数の曹操率いる連合生徒会軍を破ることで決着を見た。純戦力的には、水戦と亜熱帯といってもよい気候に不慣れであった曹操軍が攻勢限界を過ぎたのを悟って引き上げたという、それこそ蚊が喰ったような打撃しか与えていない実態であったが、政治的にはこれまで事実上無敗であった曹操を挫いたということで成果は推し量れず、長湖部そして周瑜の威名は飛躍的に挙がった。あとはこの勝利の果実を収穫することが至上命令となり、孫権は連合生徒会に一応は首肯していた不安定勢力の引き込みを狙って長湖沿いに展開させていた防衛軍をそのまま率いて合肥方面へ出撃、周瑜は長湖部に悲願である荊州校区獲得を目指して荊州南部の要地・江陵棟へ進撃した。
荊州地区の確保に曹操が残したのは、襄陽の楽進、当陽の満寵、江夏の文聘、そして最前線の要地・江陵には連合生徒会随一の武勇を謳われる曹仁を徐晃と共に配した。
程普と共に、数千の精鋭部隊を率いて江陵棟制圧に赴いた周瑜であったが、精神的重圧は恐ろしくあったとはいえ、戦い自体はこちらのテリトリーであった赤壁島の戦いとは比較にならない苦戦を強いられた。
交戦前に甘寧の案を入れて、数名の甘寧隊を江陵棟西方の拠点である夷陵棟へ奇襲攻撃に向かわせ見事陥落せしめたが、機動戦に覚えのある曹仁は数十名の機動防衛隊を即座に派遣、甘寧を夷陵棟に逆包囲した。甘寧の危機に、周瑜は呂蒙の案を入れて若手の雄である凌統に対江陵の陣は任せ、本隊を率いて甘寧の救出に向かい夷陵の囲みを解き、曹仁との直接対決に臨んだ。
一方、劉備であるが周瑜隊とともに江水沿いに進軍して、江陵棟の対岸の拠点・公安棟を陥して南方を封鎖、“万人敵”と称される豪勇・張飛に10名の兵を付けて周瑜への増援に向かわせた。同時に関羽にも少数兵を率いさせて江陵棟の北方に封鎖線を敷かせることで江陵棟の三方を押さえて曹仁の機動戦を封じた。これで共同軍としての義理は果したとして、荊州校区の在地名士にコネのある諸葛亮の言に従い、趙雲と共に武陵・零陵・桂陽・長沙の4地区の制圧に乗り出し、周瑜が江陵棟に掛かりきりの間に、荊南4地区を確保した。
周瑜の江陵棟攻囲戦は、長湖部が苦手な陸戦に長じた曹仁・徐晃の用兵の前に一月に及ぶ長期戦となった。前哨戦では、数十名の長湖部先鋒隊に数名で切り込み危機に陥った牛金を曹仁が単身突撃を仕掛けて救出したことで士気を持っていかれ、本隊での会戦においても数倍近い兵力差にも関わらず、主将である周瑜が左の鎖骨に負傷するほどの大苦戦を強いられた。攻囲も不完全で兵力に格段の差があるとはいえ、かなり自由に生徒会軍が出撃できる状況であった。江夏地区の制圧を任されていた程普も元劉表旗下の将・文聘に撃退され、やむなく同じ江夏地区に連合生徒会のそれとは別個の“江夏棟”を置いて勢力圏の拡大に努めるに留まった。
攻囲戦は周瑜の執念の前に曹仁が戦いの限界を感じたところ、汝南地区から救援に駆けつけた李通が、関羽が指揮するといえど兵も少なく対江陵棟の封鎖線であるため曹仁の突出は防げても外からの攻撃には弱い北方の封鎖線を機動部隊の突撃で破ったのを切っ掛けに襄陽へ撤退したことで終結した。
長湖部は最重要地・江陵棟を押さえたものの、江夏棟とともに対連合生徒会の最前線を受け持つことになり、肝心の後背地は全て劉備がいち早く確保してしまったことから、念願の荊州校区制覇には及びも付かない成果であった。このことが、後々まで続く荊州校区を巡る長湖部と帰宅部連合の利害対立の発端となったとも言える。
この流れの中で、益州校区への入り口を押さえ、荊南を江水から睥睨する一大拠点である江陵棟は荊州校区の争乱の中心となる。
周瑜が負傷と過労から来るドクターストップで益州校区侵攻の策を果せず引退すると、後継となった魯粛は荊州校区の利権を早急に獲得することは戦力的に無理と判断し、帰宅部連合に対する外交カードを確保するため、連合軍として生徒会への戦線の一翼を担うことを条件に江陵棟(南地区)の帰宅部連合への貸与を進言し実行に移す。
魯粛は諸葛亮との親交から親帰宅部連合派と思われているが、実のところまったくの正反対で、長湖部が一勢力として立つためには長湖と江水以南一帯を押さえてしまうことが必須の戦略であることを最初に孫権に進言したのは魯粛自身である。彼女にとって最重要事項は荊南(江陵)を押さえること、正確には曹操に取られないことである。周瑜という長湖部を率いて対外勢力と正面きって戦える将帥が不在の今、とりあえず帰宅部連合に貸しておいて、隙を見計らい情勢が許せば手段を選ばず奪い取ろうというのが彼女の戦略であった。これは呂蒙・陸遜といたる長湖部幹部リレーにおいてメインの方針となる。以後の流れを見ても、対外勢力と“正面切って”戦いに出て行ける将帥は厳密には長湖部滅亡の最後まで不在であったことを考えると(合格ラインといえるのは陸遜・陸抗だが、彼女らも防衛・内乱鎮圧戦主体であるため判断が難しい)、この方針は正しかったといえる。
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