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552:弐師 2006/02/20(月) 21:08 >海月 亮様 何故かURLに飛べませぬ・・・ にしてもギャザですか、懐かしいなあ。 小学校の頃はよく友達とやってましたね。中学校に入ってからは部活が忙しくてなかなかやる機会が無くて・・・ 対抗呪文は4枚フル装備でしたよw 周りの友人は赤緑とかの中、一人で青緑マッドネス使ってましたw 市販の物は周瑜が重くて強かったですね、8/8って・・・呂布以上の能力でしたw
553:海月 亮 2006/02/21(火) 22:31 >飛べない あ、ホントだ^^A 今絵描きBBSへうぷしなおしてきましたんでドゾ。 私がMtGから手を引いた理由は以下四つ。 ・実家に帰るに当たり、単純に対戦環境がなくなった ・対抗呪文、強迫、暗黒の儀式がスタンダートどころかエクステンデットでもレギュレーション落ち(TT) ・つかハルマゲドンが落ちた時点で既に嫌気が差してた ・黒瘴の法外なシングル価格にうんざりした 実家では時折弟が相手してくれる程度。 レギュレーション関係ないから儀式4枚投入の自殺黒とか、稲妻&火葬&火炎破&球雷フル投入のフルバーンとかフツーに使ってますよ。 あの頃はよかったなぁw あとポータル三国志の何気に周瑜はやたらでかいだけだった印象がw 呉将は孫権の常在能力が凶悪でしたからねー。
554:雑号将軍 2006/03/20(月) 21:49 今度、クラブにて公孫淵(男)についての小説を書くつもりなのですが、探してみてもそれほど情報が見つかりません…。 それで質問なのですが、司馬懿軍の将軍は 司馬懿 夏侯覇 夏侯威 くらいしか見つからなかったのですが、他にはだれかつれていたのでしょうか? あと、公孫淵VS魏ですが 毋丘倹が討伐に赴くが出水により撤退 ↓ 司馬懿軍、野戦にて公孫淵を打ち破る ↓ 公孫淵籠城 ↓ 降伏受け入れられず ↓ 城から逃亡するも捕らえられる でよいのでしょうか?なにか抜けていることがあれば教えてください。 長々と申し訳ありません。
555:冷霊 2006/03/22(水) 15:16 そうですねぇ……燕王についてはあまり詳しくないですが、おおよその流れはそんな所かと。 従軍した将軍についても詳しくは書かれていませんし……。 ただ、夏侯兄弟に関しては、夏侯恵は楽安太守を勤めており、夏侯和は司馬炎の代まで生きているとされているみたいですね。 燕王はやはり戦い前の呉と魏との間の国交のやり取りが印象に残ってますねぇ。 細かい所ですと、毋丘倹戦後に燕王を自称し、鮮卑の単于に魏の北方を荒らさせているようです。 また、篭城戦前(?)に呉に救援を求めたりしているようですね。 燕王軍関係だと、公孫淵の兄の公孫晃が後日、洛陽にて獄死している模様です。 御存知かもしれませんが、とりあえず私の知っている範囲で述べてみました。 公孫淵対司馬懿ですかぁ……四国志を作ろうとした男(?)の活躍、どうなるかが非常に楽しみです。
556:雑号将軍 2006/03/22(水) 17:00 >冷霊様 ありがとうございます! なにぶんと情報が少ないみたいで…。まあ、だからこそいじり甲斐があるんですけど。 調べていただいたことも参考に含め書いてみたいと思います。男版なのでここには持って来れませんが…。
557:7th 2006/03/22(水) 18:40 司馬懿軍の将軍として、胡遵と云う人物が従軍していますが、如何せん彼についての情報が少ないので、一応調べることが出来た分だけ。 胡遵は安定の人で、張既に召し出されて魏に仕えた模様。(魏書張既伝) その後何処をどう巡ったかは不明で、公孫淵討伐の際に将軍として従軍。先鋒として活躍した模様。(魏書明帝紀ほか) おそらくその功績により、征東将軍に昇進。毋丘倹、王チョウ(永+日)とともに、対呉出兵に参加。どうもこの後に征東大将軍に昇進。(尊号の追加のようなものなので昇進と言って良いかは微妙) 甘露元年(256)7月5日、死去。最終官位は、三少帝紀では衛将軍、鐘会伝中注の『晋諸公賛』では車騎将軍と食い違う。 と云った所でしょうか。没年などから推測すると、公孫淵討伐従軍時の年齢は50代程度と思われます。 この程度の事しか出来ませんが、参考になれば幸いです。
558:北畠蒼陽 2006/03/22(水) 19:25 [nworo@hotmail.com] あぁ、従軍した将軍についての補足ですが毋丘倹(毋丘倹伝/翌年、帝は太尉の司馬宣王に中軍と毋丘倹らを統率させ、数万の軍勢をもって公孫淵を征討させ、遼東は平定した)&胡遵(公孫度伝/司馬宣王は将軍の胡遵らをつかわして、これを撃破した)もいるんですよね。 自分が打ち破れなかった軍勢をやすやすと打ち破っていく司馬懿の手腕を見て毋丘倹がどう思うか〜、とかって方向性もあり。 あと胡遵が対呉戦線に移動してから毋丘倹と思い出話に花を咲かすもよし(自分的メモ 流れに関しては大まかはいいんですが…… 四千里征伐は記述がばらばらでまとめるのが面倒ですね。呉側で公孫淵救援に賛成した羊ドウは太子孫登のダチだったり、羊ドウと一緒に使者として北に向かった鄭冑はのちに晋王朝入りしてたり、と変にエピソードが多いです。 もしお近くの図書館にちくま三国志があれば2巻をなめるように読むのをオススメします。 ま、苦労するのも物書きの楽しみってことで一つ。
559:雑号将軍 2006/03/22(水) 22:43 >7th様 おお!調べて頂きありがとうございます。胡遵…丁奉にしてやられた人ですよね?なるほど…すると、彼は北へ南へ転戦したみたいですね。 >北畠蒼陽様 毋丘倹も参陣しているのですか!し、知りませんでした…。なるほど…司馬懿と毋丘倹が相手では公孫淵は敗れるのは必定ですな。 そうなんです…図書館に言ってみたのですが、ありませんでした…。明日、やっと登校禁止期間が解禁となるので、図書室に潜入しようと思います。 7th様、北畠蒼陽様、数々の情報、ありがとうございました。
560:★玉川雄一 2006/03/23(木) 20:37 司馬懿の見せ場と聞いてやって来ました。晋書宣帝紀より援護射撃〜♪ ●司馬懿が洛陽から率いた軍には胡遵のほか牛金の名も見られる。 かつて南郡にて曹仁のもとで戦った人物と同じであるならば地道に出世していたようだ。 235年には蜀の馬岱の侵攻を司馬懿の命により撃退している。 もっとも、彼は遼東戦役後に司馬懿に暗殺されたともいわれている… ●魏軍が襄平を包囲したところで長雨に遭うが、司馬懿は陣替えの要求を断固拒否する。 禁令に背いてあえて進言した都督令史の張静を斬り、決意を徹底させた。 司馬の陳珪の問いに対し、かつて上庸に孟達を攻めた時との差違を示しつつ持久戦を説いた。 その後、雨がやむと総攻撃を開始した。 ●公孫淵の字は「文懿」。唐代に編纂された『晋書』では高祖・李淵の諱を避けねばならず、 公孫淵は「公孫文懿」と表記されていることから判明した。 では、健闘を祈る!(゚∀゚)ゝ
561:雑号将軍 2006/03/23(木) 22:47 >玉川雄一様 ぎ、牛金!?それはまた予想外の人物が現れました…。って、今日買った三国志新聞にも載ってるし・・・・・・。 馬岱まで敗れているとは…。それとも馬岱はそれほどすごくないのでしょうか? この陳珪は呂布がらみの陳珪とは違う人ですよね? すばらしい援護射撃、心より感謝申し上げまする。
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