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稚権ちゃん ■夏侯恵■
1:玉川雄一 2003/12/21(日) 22:32 腕っこきライター夏侯恵タン。 腕っ節の強い姉たちとは趣を異にした文系少女で、 文書処理能力に優れ、執行部役員を務めることになった。 人を見る目もあったようで、劉劭を推薦したのは彼女だった。 執行部ではその運営を巡って鍾毓と論戦を交わすことが多かったが、 夏侯恵の意見が採用されることが多かったという。 その後外に出て、燕の棟長代理や楽安棟長を務めた。 彼女は活動期間の半ばにして早々と引退していったが、 健康上の理由のためとも、学業へ専念するためとも諸説ある。 あるいは司馬氏の台頭に対し思うところあって身を退いたとも推測されるが、 その真意は今のところ明らかにはなっていない。 アサハルさん謹製のカーディガンを着せてみました。 ソデがある分サマーセーターとも使い分けできますな。 この辺は各自の好みでとっかえひっかえするんでしょうが。
2:★ぐっこ@管理人 2003/12/21(日) 23:44 義兄上グッジョブ! 諸夏侯曹伝進行中! うーむ、あの姉と同じ血とは思えぬ穏やかなインテリ少女。 名前からして優しそうだし。 うーん、でも夏侯姉妹って短命が多いなあ…。最後まで活躍してそうなのは 夏侯覇くらいか…。ホント、どうしましょう(^_^;) >カーディガン イイですね〜。あ、制服スレつくらなきゃ…。 ちょいと該当スレを漁って原稿まとめないと…
3:那御 2003/12/22(月) 00:01 玉川様グッジョーブ! 文科系でもバンダナオケーイ! バリバリ体育系の姉らと、 対立もなく上手くいったのはひとえに彼女の性格のお陰かも。。
4:★玉川雄一 2003/12/22(月) 00:02 >活動時期 んー、多分ね、夏侯和(これから描く)の方がもうチィと遅くまでおりますな。 鍾会の乱のときに成都にいたそうですし。 あ、その時には相国左司馬だったそうだけど、これってそんなに高い地位ではないですよね。 世語の記事だと河南尹や太常にまでなったみたいですけど、それ以降の話ってことなのかな。 相国左司馬は六品千石だけど、河南尹は三品二千石、太常は三品中二千石とのこと。 晋代になってからも活動していたのかな。それともまさか降格したりしたのか? 夏侯淵の末っ子っとことは、蜀滅亡時には40代後半〜50代前半か。 むじんさんの神リストでも、いつの時期に河南尹だったかまでは分からないか…
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