下
通耀ちゃん ■王叡■
1:玉川雄一 2004/01/12(月) 18:34 もう何が何やら。王叡タン。 名門・琅邪王氏の出身であり、その才覚を発揮して荊州校区総代となった。 時あたかも学園中央では董卓の専権極まり、各地で反董卓の気運が高まっていた。 王叡も打倒董卓を叫んで連合に加盟したが、事態は思わぬ方向へと向かう。 彼女はかねてより麾下の武陵棟長・曹寅と不仲であり、 この混乱に乗じてまず曹寅を粛清すると公言してはばからなかった。 懼れた曹寅は対抗策として王叡を弾劾する檄文を偽作し、 同僚の長沙棟長・孫堅に送りつけたのだった。 名門を自負する王叡は日頃より「体育会系の成り上がり者」と 孫堅を軽んずる言動に事欠かなかったという経緯があり、 半ばその意趣返しも込めて孫堅は王叡を襲撃した。 あるいは檄文が偽作であることを看破しながらも、 なお敢えて実力行使に踏み切った節も見られる。 進退窮まった王叡は、無法者の手に掛かるよりはと自ら階級章を返上した。 自ら種をまいた厄災とはいえ、名門の矜持は辛うじて護りきった、というべきか。 妹の王融は廬江棟に難を避けて学園活動に参加することなく三年間を終えたが、 同行した従妹の王祥、王覧姉妹はその後劉・曹氏蒼天会の中枢に返り咲き、 さらに王敦・王導に至り司馬氏蒼天会を背負う柱石となるのだが、 それはまた別の物語となる。
2:玉川雄一 2004/01/12(月) 22:01 もうコースアウトしまくりで恐縮の至り。 王叡クラスを投入するとなるとターゲットが一気に広がるよぅ(((((;゚Д゚)))) そろそろ本道に戻して締めくくらねば。 で、なぜに王叡かと申さば。 ……今まで黙ってたけど、ウチ、琅邪王氏萌えやねん。 香香さんが潁川鍾氏を、japanさんが潁川陳氏を愛して止まないように! ちなみに琅邪王氏とゆうと、厳密には琅邪国臨沂が本籍。 この王叡、王融以下王祥、王覧を経て王敦、王導はては王羲之に繋がるのがこの系統。 また、魏の幽州刺史王雄から「竹林の七賢」のひとり王戎、 さらには清談ヲタのヘタレ宰相・王衍などを輩出した系統も。 この二流がどこかで繋がるのかは不明。でもたぶん同族っしょ。 で、意外なところでは孫権の妃である王夫人(孫和の母の方)も琅邪の人だそうな。 でもね、根本的なところでちょっと疑問が。 物の本には「名門」って書かれているけど、それっていつからだったんでしょ? 誰の代から羽振りを利かせるようになったのか、 そしていつの時代から世間に名門と認識されるようになったのか。 少なくとも魏代にはかなりの地位に昇るようになっていますが、 後漢以前に系譜を遡ることができるのかしら? 例えば、『後漢書』に琅邪王氏の人って立伝されているのかな。
3:★ぐっこ@管理人 2004/01/12(月) 22:08 うほッ! 王叡ですと!? つうか、一瞬誰かと(^_^;) 董卓征伐にかこつけて孫堅がぬっころしていった実力者の一人ですな… 確か陳舜だと金毒の飲み方について孫堅に一通り語ってから死んだけっか… 彼女自身はともかくとして、妹たちがそれなりに名声を博し、学園有数の 実力者になってゆくわけで…。王渾も琅邪でしたっけ?
4:玉川雄一 2004/01/12(月) 22:21 なんと、陳舜臣作品(秘本?)には登場しておりましたか。 で、王渾ゆーても二人おりますわね。 ひとりは字を玄沖。王昶の子とゆうことは太原晋陽の王氏。 安東将軍として呉の討伐に参加し、のちに司徒にまで昇りました。 晋書の序盤に錚々たる面子に並んで立伝されており、こっちの方がメジャー。 ぐっこさんが指してるのはこちらでございましょ。 もうひとりは字を長原、王雄の子なんでこっちは正真正銘琅邪王氏。 ちなみに王戎のお父ん。自身は阮籍のマブダチ。 涼州刺史にまで昇ったんで、まあ頑張ってますよね。 で、三國志VI(IVだったかな)事典だと両者が混同されていたり。
5:★ぐっこ@管理人 2004/01/12(月) 22:23 あ、時間差だ(^_^;) そうか…琅邪王氏萌えでしたかッ! うーん…いま中央研究院で検索かけましたが、 王景字仲通,樂浪邯人也. [一]八世祖仲,本琅邪不其人.好道術,明天文.諸呂作亂, 齊哀王襄謀發兵,而數問於仲.及濟北王興居反,欲委兵師仲, [二]仲懼禍及,乃浮海東奔樂浪山中,因而家焉.父閎,為郡三老. 更始敗,土人王調殺郡守劉憲,自稱大將軍、樂浪太守. 建武六年,光武遣太守王遵將兵擊之.至遼東,閎與郡決曹史 楊邑等共殺調迎遵,皆封為列侯,閎獨讓爵.帝奇而徵之,道病卒. ↑ニアミス(^_^;) 八世前か… 名門…確かに、そうですねえ。袁紹の袁家だって、後漢王朝始まった頃は、 官に仕える学者にすぎなかったわけで…。門生故吏システムでどんどん人脈 が広がって、ついには官界を牛耳るようになりましたが、「名門」という ステータスは、けっこう後になって付いてきたはず。太守を歴任したぐらいじゃ 名門とは言われないでしょうし(「累世二千石」ってやつですな)。
6:那御 2004/01/12(月) 22:28 王叡!段々と強烈な方々になってきましたな・・・w このクラスが増えるとすごいことに・・・ 堅物っぽい顔立ちがグッドです! ってか、王叡って、一応孫堅と組んで、 区星、周朝、郭石らの叛乱を鎮圧してるんですよね。 「体育会系」発言もその時かと。 >ぐっこ様 王渾は王昶の子だから太原の出です。 ちなみに、王基は東ライの出なんですが、瑯邪に遊学してますね。 ってか、皆様「〜の〜氏」萌えなのか・・・ワタシも何か探そう。。
7:那御 2004/01/12(月) 22:30 完全に時間差食らってしまいましたw(のんびり書きすぎ) 申し訳程度に「呉の四姓」あたりが萌えかも。
8:★玉川雄一 2004/01/12(月) 22:38 つうかゴメン、晋書王祥伝の冒頭に系譜が載ってた。 王祥は漢の諫議大夫王吉(って有名?)の後裔。 祖父の王仁は青州刺史だったんですって。 とゆうと、結構昔からそれなりの家柄ではあったみたいですね。 ちなみに王仁の子が王叡と王融。王融の子が王祥と王覧。 中央に入って確乎たる地位を築いたのはやはり魏晋革命期の王祥、王覧兄弟かと。 あと、西晋の皇統が絶えたとき、江南でそれを継いだ司馬睿(東晋元帝)が 琅邪王だったというのも何かの縁なのかも。
9:那御 2004/01/12(月) 22:49 [sage] 今調べたんですが、王吉って漢書に伝が立ってますね・・・ 司馬相如との話が有名だとか。(自分は知らないw) 瑯邪王氏を辿るだけで、こんなに面白いとは・・・
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