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休淵ちゃん ■陳騫■
1:玉川雄一 2004/05/10(月) 23:04 対南方戦線の大黒柱、陳騫。 曹氏蒼天会中期に全校評議会評議長となった陳矯の末妹。双子の姉に陳本がある。 中等部時代には、劉曄の讒言を受けた姉の陳矯を励ますなどその才の片鱗を見せた。 高等部に進級してからは、中央執行部の書記官を皮切りに内外の執行委員を歴任。 一方で帰宅部連合の北伐を退けあるいは諸葛誕の叛乱討伐に参加するなど 実戦指揮官としての功績も重ねてゆくことになる。 その後しばらくは豫州、荊州方面で長湖部の備えとして指揮官位を務めた。 司馬氏の新蒼天会が成立すると一旦中央に転じ、短期間ながら連合生徒会長の役に就く。 その後再び前線に赴いて長湖部との局地戦に勝利を収め、 また中央に復帰し実動部隊の総帥として司馬炎の諮問に対した。 長期に渡る活動で功成り名を立て度々引退を申し出たがその都度慰留され、 結局任期満了まで顧問の地位を務めることになる。 司馬炎の引退後、司馬衷登極とそれを契機に生じた混乱の終息まで見届けて活動を終えた。 陳騫は実動部隊の高級指揮官として豊富な経験を持ち、まずその役目をよく果たした。 賈充らも一目置くほどの才覚の持ち主ではあったが、 一方で直言をなすようなことはなく、司馬炎にタメ口をきくかと思えば 司馬衷にはへりくだってみせるなど司馬氏へのへつらいを非難されることもあったという。
2:玉川雄一 2004/05/10(月) 23:28 実は、長姉の陳矯はjapanさん作『特攻天人』で登場済み。 彼女がショートっ娘だったんで陳騫もお揃いで。たぶん陳本も。 で、陳騫(212-292)ですが、魏末には前線の上級指揮官を務め、 晋代に入ってからは中央の軍官職を歴任した武闘派。 でも最初は文官スタートだったみたいですが。 尚書郎として起家(初任官)したのを皮切りに、 中山、安平太守、相国(司馬昭)司馬、長史、御史中丞、尚書に。 “蜀賊”が侵攻してきたので尚書のまま持節行征蜀将軍に。 東で諸葛誕が反すれば、さらに尚書のまま行安東将軍として討伐に。 平定後、使持節都督淮北諸軍事、安東将軍に。 転じて都督豫州諸軍事、予州刺史、持節と安東将軍はそのまま。 さらに転じて都督江南諸軍事、うつって都督荊州諸軍事、征南大将軍。 晋朝が成立すると車騎将軍、また侍中、大将軍に。 外に出て都督揚州諸軍事、侍中、大将軍はそのまま。このとき呉の枳里城を攻略。 さらには太尉、そして大司馬に転じてゴールイン。死後に太傅と追贈。 かなりの軍歴と貢献ですから、人格的に多少アレでも司馬炎は許しちゃいますかね。
3:法全 2004/05/11(火) 01:18 陳騫,なるほど.調べてみると相当な遍歴がありそうなわりに, あのゲームではテキトー顔にテキトー能力値だし,どうにも掴め ない感じでしたが・・・文官スタートだったのですか. ・・・司馬さん周りって問題児しかいないんですかね?(笑)
4:玉川雄一 2004/05/23(日) 01:21 親父さんの陳矯が司徒だったし、文官系にコネがあったのですかね。 で今回改めて陳騫伝を読んでみたら陳騫の媚びっ娘ぶりにトホホな気分でした。 司馬炎の堕落を止められなかったのと、 太子司馬衷の廃嫡を行わせずむしろその地位を守ろうとしたのは 困ったちゃんズの存在があればこそですが、 一方で身を捨ててまで朝廷に尽くした人もいたからこそ 晋朝は土壇場で息を吹き返したともいえますね。 でも司馬炎がダレたのは当人の責任ですし、 総合的にはマイナスポイント多いですよね。
5:★ぐっこ@管理人 2004/05/26(水) 00:32 うわ、レス抜け。そっか、陳矯たんの妹か〜。なるほどなるほど、晋書ないと学三が唯一に近い ソースだなあ… そりゃともかく、確かに光栄ではテキトーなカンジで設定されてますねえ…。文官もできそうな 平均型ザコ、というところで… なるほど、結構な遍歴だったわけで。しかし佞臣タイプでないにしても、保身を心がけるタイプ だったのは確かに減点。こんなに可愛いのに。
6:にゃん 2011/11/28(月) 02:32:18 ID:xVbPmxy5 [sage@yahoo.co.jp] べっ、べつにアンタのために教えるんじゃないからね!(ノ゚Д゚)ノシ☆ ktjg.net/index.html
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