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サンホラ雑談スレ
242:夜型人間・シドウミツキ2004/11/08(月) 03:58
「Elysion」の発売から2週間近くが経ち、今作から触れた方々の間にもだんだんと謎解きが流行り始めてきたようですね。
音楽性については十分に分かる内容でしたが、物語性についてはこれ一つでは謎が多すぎるということで、
今までの曲同士の相関図を作ろうと思っているのですが、一種の少宇宙じみてきてなかなか上手くまとまりません。
いっそのこと、Wikiサイトにでもした方が楽かも?
それはそうとして、Malebranche三部作についての私なりの解釈を書いてみるとしましょう。
これは結構前から考えていたので、それなりに自信のある考えです。
まず、絞殺・死体遺棄未遂についてですが、死に掛けたのではなく、死んでから甦ったのではないかと私は考えます。
なぜならば、養父Armandの「もう一度この手で彼女を・・・」という台詞から、殺害がこの一度きりではないことが分かるからです。
また、Micheleが男性の血液を必要としていたことからも、彼女が普通の人間でないことが見て取れます。
彼女がなぜ不死の身体になったのかについて手掛かりは少ないのですが、
もしかすると、実父Josephが彼女を殺そうとしたときから既にはその兆候はあったのかもしれません。
その後、"識られざる幕間劇"のように隠れて血液を摂っていたところがいつしかArmandの知るところとなり、
危機感を抱いた彼によって殺害されたものと考えられます。
一方、ArmandがMicheleを最初に殺そうとした時、彼はまだ比較的に正常な思考を持っていたはずです。
しかし、殺したはずの人間がその度に甦ってきたとしたら、そりゃあ発狂しても仕方ありません。
結果彼は、彼女が死ぬまで殺し続けなければならないという"檻"に囚われてしまいます。
(忘れるまで思い出して、失うまで逃がさない)
その後Micheleは13人の青少年の腐乱死体とともに干からびた老婆の姿で発見されますが、
これは、不死の身体であったことの代償ではないでしょうか。
つまり、男性の血液を摂取する限り彼女は生き続けることができたのですが、それだけでは孤独な生でしかない。
他人に愛されてこその人生であるという思いから、自分を愛してくれる人を探していたのでしょう。
(元を辿れば、子供の頃の「私 お友達が 欲しいな・・・。」という言葉が既にその始まりだったのかもしれません)
しかし、その思いが極めて偏執的であったために、結局彼女を愛してくれる人は誰一人見つからなかった。
ならば生きていくことは苦痛にしかならないということに気付き、彼女は自殺(血液の摂取を止める)に至ったのです。
(愛を無くしたこの世界に・・・ 捧ぐ...お別れの挨拶)
老婆の姿となったのは、今まで不死の身体であったことの反動でしょう。
"自称天才犯罪心理学者"M.Christphe Jan-Jacques Saint-Laurentが言うところの"檻"、「我々も同じ檻の中にいる」というのは、
すなわち、誰かに愛されながら生きていたいという願いに他ならないと私は考えます。
と、ここまで書いたところで誤って一度消してしまったので、それこそ私が干からびかねない状態でした(^^;)
言うまでもありませんが、以上は私独自の解釈ですので、彼女の不死性などを取り除いて考えるのもまた面白いと思います。
他に気になる点と言えば・・・
・Micheleの没年が1903年、そこから「死後一世紀」ということは、
Christphe Jan-Jacques Saint-Laurentの生きている時代は2000年代、つまり現代。
連作幻想戯曲「檻の中の花」とは、本当にただの戯曲なのだろうか?
・このMalebranche三部作と「Ark」に繋がりがあるとは考えられないか?
共通点としては、"檻"という単語が出てくることと、偏執的な愛の物語であるということ。
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