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★☆蒼天航路スレッド☆★
218:.2002/10/19(土) 00:36AAS
香香 2001年11月16日金曜日 11時03分
「ゴンタ先生の疲れが最近の話からアリアリと見えて、終わっちゃうのではないかと不安でしたが。かろうじてまだ続きそうですね。
でも、既に多くの方が仰せのように、孫呉の活躍をもう少し見たかったですね。
周瑜の見せ場は、南郡争奪戦に持ち越しでしょうか・・・。
219:.2002/10/19(土) 00:37AAS
左平(仮名) 2001年11月16日金曜日 20時07分
ちょっと前の話になりますが、、黄蓋の部下たちが持っていた発火物(球状のものを握っていましたね)、あれ、ひょっとして、黄燐では? 当時の中国で使ったかどうかまでは知りませんが(確か黄燐は、近世の西欧でマッチの頭に使用されていた、と何かの本で読んだ覚えがあります。発火点が低い為、よく自然発火による事故が発生したそうで、現在では赤燐を使用しています)。
220:.2002/10/19(土) 00:37AAS
左平(仮名) 2001年11月16日金曜日 20時12分
↑で、黄燐はマッチの頭に使用されていた、と書きましたが、あれ、頭じゃなくて擦る方だったかな、、。ともかく、マッチに使用されていた、というのは何となく覚えています。
また、広島に原爆が投下された後、放置された死体から蒼白い焔があがったという話も聞きました。それは、死体から出てきた燐が発火したのではないか、と書かれていたのを何となく覚えています。
221:.2002/10/19(土) 00:37AAS
ぐっこ 2001年11月17日土曜日 21時31分
うーん。
…李先生〜っ!!
第二部、周瑜が生きてるか死んでるかでだいぶストーリーが変ってくるような…。
結局吾粲もいうほど活躍しなかったし、次は孫瑜の時代か!?(;^_^A
省9
222:.2002/10/19(土) 00:38AAS
左平(仮名) 2001年11月17日土曜日 22時22分
自分で書き込んでて間違いがあっては大変、というわけで、化学関連のHPを少しのぞいてみました。「(元素の)周期表」というカテゴリでみると、燐が元素として発見されたのは17世紀との事。したがって、3世紀の中国で燐をあの様な形(精製したものを発火物として使用)で用いられていたという可能性はほとんどなさそうです。変に煽ってしまいまして、どうもすみません。
ただ、「燐」という字自体は、『説文説字』にも収録されていますし、白川静氏の『字統』でも紹介されていました(なんでも、戦場でみられる鬼火の事を燐といったとか)。
223:.2002/10/19(土) 00:39AAS
MOS 2001年11月17日土曜日 23時52分
「化学系としては書かないワケにイかないですねぇ(笑)
リンは、比較的元素として発見されたのが古く、だいぶ前から(紀元前から?)存在自体は認められていたと思います。ですが、単体として分離するのは非常に難しく、ほぼ常に単体で存在する水銀のような物質でもなかったため、『リンの発見』はかなり遅れました。
また、リンは分離するのが難しいように、扱いが困難ですから、リン系の爆薬はごく近代になってからでしょう。はっきりとは言えないですが、中世になってから、と思われます。日本で花火として有名・利用されていましたから。現代の学生でもリンの取り扱いは相当に難しいんですよ。。あ、『学生』が誰かは秘密ですが(^^ゞ
なお、一般に爆薬というと、窒素系(硝酸系)を指すようです。元寇の時に用いられた爆薬は、おそらく硝酸系では??と思ってますが、、確証はありませんです(笑)
224:2002/10/19(土) 00:40AAS
MOS 2001年11月17日土曜日 23時53分
あ、現代の爆薬、例えばTNT火薬やプラスチック爆弾も、ほぼ全てが硝酸系です。
225:2002/10/19(土) 00:41AAS
左平(仮名) 2001年11月18日日曜日 10時09分
燐を利用しての着火は考えにくい、となれば、他の可能性を考える必要がありますね。
1,(曹操たちの足元から突如として噴出した)天然ガスそれ自体が自然発火した。
→化学の知識は全くないので、化学関連のHPを見てみました。フリ−ラジカルがどうの、、とは書かれていましたが、そのメカニズムは完全には分からない様です。
2,(黄蓋が自らを鞭打たせる時、豪雨でした。周瑜のもとに報告しに来た吾粲もずぶ濡れでした。と、いう事は、)冬の雷がどこかで落ち、その電流が天然ガスに引火。
→雷が鳴っていない、、。
省11
226:.2002/10/19(土) 00:41AAS
ぐっこ 2001年11月18日日曜日 23時12分
「うお、ナニゲに発火物スレに(;^_^A
リンの個体としての使用はもっと後ですか〜。…MOS様、何でも知ってるんですね…(^。^;)
硝酸火薬で思い出しましたが、吉川三国志ほか幾つかの作品で、大砲「霹靂車」が登場してましたよね〜。人頭大の砲弾(石?)を敵の矢倉に撃ち込み、破壊するという…。
砲弾は当然炸裂弾ではないでしょうから、「ぶつかっただけ」で敵矢倉を崩壊させる破壊力が必要。
距離は弩の射程範囲内ですから、50メートルちょいでしょうか? この距離で、敵の矢倉の脚部を撃ち抜いたり完全に崩したりするわけで……。
省12
227:.2002/10/19(土) 00:42AAS
左平(仮名) 2001年11月19日月曜日 20時34分
霹靂車が「西方の海洋から渡ってきた戎蛮の兵器」と書かれていたとの事ですが、、塚本ヨ史氏の『蔡倫−紙を発明した宦官−』の中に、こんな記述がありました。
(班超の命をうけ、大秦国(=ロ−マ帝国)に行こうとした甘英が帰朝報告を行い、さまざまな物品を宮中に陳列します。)「、、武人たちは、巨大な投石機に興味を示した。、、大秦国の武器は、大きな柱に撥条(ばね)を取り付け、大石を飛ばすものだ。、、」技術的には、当時の中国でも製作可能ではあった様に書かれています。機械の天才(本文では鬼才とありますが、後漢の時代にはない言葉なので、ここでは天才と書いておきます)・張衡なる人物がいたとか。
ロ−マ帝国が漢の西方にあるのは分かります。では何故「海洋」なのか?理由は恐らく二つあります。
1,条支(シリア)国から、船で地中海を渡ってロ−マに行こうとした為。
2,太古の中国では、陸地を方形とみなし、四方を海に囲まれていると考えていた為。
省7
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