下
★☆蒼天航路スレッド☆★
295: 2002/10/21(月) 22:36 岡本 2002年03月20日水曜日 00時57分 左平様、岡本と申します。 >鐙 本職が科学関係であるせいではないですが、こういった技術史に関心があります。映画の時代考証も参考にしておりますが。 さて、鐙は中国においては出現は遅く、漢の時代のものは鞍の片側だけにそれこそ騎乗の際の足がかり程度の役目しかありませんでした。必然的に乗馬の際は股の締め付けで全体重を支えることとなり(蟹股の原因)、生まれたときから騎乗になれている北方騎馬民族か乗馬術を習えるだけの(そして馬を飼えるだけの)裕福な家の出でないと乗馬術は身につきませんでした。これは洋の東西を問わず紀元0年付近ではいえたことで、カエサルがガリア戦で急行するため軍団兵に馬を与えたとき、”近衛兵に取り立ててくれた”(近衛兵は貴族階級が多いという意味でエリート)と喜んだとの話があります。 形状も、ご指摘のように鎌倉武士の足乗せ形でなく、金輪です。 記憶があやふやですが、両側に鐙(金輪とはいえ)が付いたのは東晋以降だったように思います。そのため、過去三国志について述べた文章で、関羽は9尺の大男で82斤青竜刀(〜18 Kg)を遣うときは”片足をよっこらしょと地べたにつけて体重を支えて斬った”、という記述を見たことがあります。青竜刀自体あったかどうか(似たような長柄刀はありましたが)疑わしいので、かなり憶測を書いていたのだと思っています。 ですから、過去いろいろの三国志の漫画で時代考証を考えた場合、本場中国での科学技術史の進歩も関係するため、時には”ん???”と思うようなものもあります。横山光輝氏も参考にしていたと思われる三国志連環画(全12巻:私が高校生の時にあったのですが手が出ませんでした。)は、中国の冷兵器(火薬を使わない兵器)と甲冑の技術が頂点に達した明の時代のものを多く参考にしています。
296: 2002/10/21(月) 22:37 ぐっこ 2002年03月20日水曜日 01時38分 >左平(仮名)様 え!? もうモーニング出てるですか!? チックショウ、気付かなかった! あうう、明日読んでから私の感想を書きます〜! >岡本様 相変わらず詳しい…(;^_^A そうですよねえ…あの当時輪乗りしながら一騎討ちするようなのは居なかったでしょうし…。鐙はもっと後になってからですか〜。 三国志演義がどれだけ出来のよいノベライズだとしても、所詮は後生作家の作品…(;^_^A
297: 2002/10/21(月) 22:42 左平(仮名) 2002年03月20日水曜日 21時39分 >岡本さん さっそくの詳しいご説明、ありがとうございます。 なお、作中で見た範囲では、鐙が両側にあったかどうかは分かりませんでした(温恢の左足が鐙にかかっているのは確認できましたが、右足の方は書かれていませんでした)。 ただ、描き方からすると、やはり両側に鐙がある様に思われます。 >ぐっこさん 今週は、木曜日が祝日だからでは?としか言い様がないです。普段の週でも、時々ですが水曜日に「モ−ニング」が置かれている事があります(私がいるのは広島県。いくら何でも、広島が一番早いという事はないはずです)。 ちなみに、今月は「文藝春秋」の発売日の10日が日曜日という事もあってか、8日の金曜日にはもう書店に並んでいました。宮城谷三国志もいち早くチェックできましたよ。
298: 2002/10/21(月) 22:42 玉川雄一 2002年03月20日水曜日 22時23分 ううっ、温恢がこんなに出ずっぱるなんて… 史上こんなおいしすぎる三国志マンガが、 いや三国志を描いた作品があっただろうか! いや(多分)ない。 ああ…いずれあの城に張遼・楽進・李典の三人が乗り込んでくるんですね。(既に脳内ビジュアル化済み) たださらにもう一押し欲しいところ。劉馥は曹操にすら敬服される破格の待遇でしたが、温恢は現状はまだそこまでのキャラではなく。前回の程Gといい、今回の曹操の絡みといい、どうも受け身キャラにとどまってるのが残念。 いっちょ、彼が実力を発揮するシーンを合肥攻防戦あたりでお願いしますよゴンタ先生! ところで鐙。片方…左だけ、だったんでしたかねえ。最初は。それがいつ頃からなのかはよく知らないのですが。しかし、趙雲の長坂のアレは鐙ナシじゃあ成り立たない芸当だったけど…」
299: 2002/10/21(月) 22:42 ぐっこ 2002年03月21日木曜日 00時59分 私もさっきコンビニで確認〜! なんでこんなに早く… 温恢…本当に鎧をつけたSDキャラみたいだ(;^_^A しかし話の内容はディープ…。後半の展開、ああいう伏線と結末を 持ってくるとは…! 多分次回予告はあてずっぽうだろうな… >あぶみ あ、趙雲本当にあぶみ使ってら(;^_^A よく見れば呂布も。
300: 2002/10/21(月) 22:43 白崎ゆきと 2002年03月22日金曜日 13時33分 みなさま、始めまして。白崎と申します。 ちょっと興味のある話題でしたので……。 騎乗時に用いる両足の鐙の登場は、全世界的に遅いので、中国はそれほど遅くなかったハズです。 それどころか、この手の鐙を生んだ地域の有力候補だったと思います。 また、今のところ確定している、中国での片足鐙の例は西晋だと思っていました。 これは出土物と騎馬俑(これの載っている図録は入手)の造形で確認されています。 でも、ここ2、3年で発見があったのかも……。 岡本さん、宜しければ漢代には存在したという話の情報源をご教授ください。すごく興味があります。 西晋でも片足鐙しかないということで、必然的に三国志では両足鐙はないとされてますね。 鐙がなければ踏ん張りが効きませんので、騎乗しながら反動の大きい武器を使うと、落馬する危険性が高いそうです。 そのため、使える武器はかなり制限され(斬るよりも、刺すが主体なそうな)、一騎打ちで斬り合うなどもってのほかみたいです。 ちなみに、青龍刀はもっとずっとずっと後の武器だそうな。 あと、もう読んでいないのですが(爆)、蒼天で鐙はデフォルト装備ですよ。
301: 2002/10/21(月) 22:43 ぐっこ 2002年03月23日土曜日 00時08分 わ、白崎ゆきと様、ようこそおいでくださいました〜! 岡本様待ちに割り込むカタチになりますが(^_^;)、まずはご挨拶をば。 基本的に中国も戦車の国でしたから、趙雲のご先祖様(←勝手に決めてる(^-^;)がウマーに直接乗るという突飛な概念を輸入してなかったら、もっと騎馬軍団の出現は遅かったでしょうね〜。 で、あぶみ…あ、いま南蛮王読み返したら、ちゃんと公孫楼初登場の時に「鐙のない時代に…」て書いてある! 凄ェ俺! …と自画自賛してみる(^_^;)。 それはともかく、歴史の本とか読んでて疑問発生。当時の馬上兵器として戟や戈が紹介されてるのがありますが、「すれ違いざまに首を刎ねる」という文に疑問(^_^;) これって戦車戦での使用方ですよねえ…。 だいたいあぶみが無い馬の上で、それなりに高速ですれ違う相手の首に刃物引っかけたら、自分も引きずり落とされるような。 日本では、騎兵は攪乱と陽動が主任務で主力になり得なかったらしいですが…三国志当時の騎兵の戦い方についての考察、どなたかプリーズ!
302: 2002/10/21(月) 22:44 岡本 2002年03月24日日曜日 15時18分 白崎様、岡本です。 >片足鐙の例は西晋 全く、そのとおりです。私の記憶が混乱しておりました(やはり文献を見ながら書かないと)、謹んでお詫びいたします、すみません。ああ、恥ずかしい。 両足鐙についても正確に補足しますと、4〜5世紀ごろの南北朝の時代に大量に出現した重装騎兵で、騎乗時の安定性を確保するために出現したようです。ですから東晋というのは間違いではありません。需要との関係で技術も進む一例です。 >この手の鐙を生んだ地域の有力候補 う〜ん、西アジアがどうだったか私は知らないので...。 ところで、おっしゃる文献は学研からでている中国古代の戦術・兵器に関する本でしょうか。それでしたら元ネタは同じです。 >使える武器はかなり制限され(斬るよりも、刺すが主体なそう>な)、一騎打ちで斬り合うなどもってのほかみたいです。 前漢の時代に”斬馬剣”(騎馬をも切れる長大な剣)は存在しました。これは漢書に記述があります。 その関連で、もしかしたら宋の時代の大刀に対応する薙刀が存在したかもしれません。 面白い話としては、北方騎馬民族の武器は鍛(タン:矛の一種)と弓矢と”剣”だったようです。最初の2つは分かるとしても剣とは..。 漢代にはいってから鉄製武具の普及が進むと(秦の時代に旧七雄から武装剥奪のため青銅製武器を集めて溶かしたことも効いている)、製造のしやすさ、と強度、斬り降ろしの威力から、剣から環刀への転換が進みます。この環刀が騎馬兵でどのような遣われ方をしたかは記憶があやふやですのでまた、調べてからお答えします。 日本では、騎馬武者主体の平安後期・鎌倉期は日本刀の形状が薙ぎ切りに適した反りが深く刀身の長い”太刀”だったのが接近白兵戦主体の戦国期になると反りの浅い刀身の短い”打刀”に変貌しました。 もしかしたら、中国の騎兵でも剣→環刀で似たようなことがあったかもしれませんが情報をもっていません。 >すれ違いざまに首を刎ねる」という文に疑問(^_^;) これって >戦車戦での使用方ですよねえ…。 戈の形状から使用法の変遷が読み取れます。戟も漢や三国時代は宋の時代に出現した戟刀(矛に三日月状の刃=月牙がついたもの)ではなく、矛+戈のトの字型の形状ですので同じように解釈してください。記憶を頼りに話をしていますので、流れは正しいですが、正確な年代があやふやです。間違っていましたら補足をお願いします。 1.春秋・戦国時代の戦車戦で使用したものは鎌のようにすれ違い様薙ぎきるので、刃と柄の角度が90°以上。場合によっては120度ちかく。刃の形状も引き切りに適した伸びやかな両刃。 2.秦・前漢の時代に戦車戦が廃れ、騎馬にとって変わられ、戦いもより激烈な接近戦主体となると”薙ぎきる”というよりも”打ち込む”というような使用法に変貌。そのため、刃と柄の角度が90°ぐらいになる。刃の形状は突き刺しに適したナイフ形。 というところでしょうか。横山光輝氏の楚漢戦争”若き獅子たち”では2.の内容が再現されています。 以上、ながながと失礼しました。
303: 2002/10/21(月) 22:45 ぐっこ 2002年03月24日日曜日 22時18分 うお、早速の詳報大感謝! さ、さすがは武道の岡本様(¨;)参考になります〜! とりあえず私宛のぶんにレスなど… >戈の形状から使用法の変遷が読み取れます。 なるほど、そういう風にして割り出すですか! BSドラマなんかで雑兵が持ってる、あのフレミング左手の法則にあてはまりそうな直角に刃が飛び出てる矛が、正解と。 “打ち込む”ということは、あれを横に薙ぐのではなく、縦に打ち下ろして使っていたと言うこと!! おお!? なんか三国志観があざやかに一変した!! いや、BSドラマの雑兵が、へっぴり腰に「えいえいえいっ」みたいな矛の振り回し方をしていて「それは違うだろ」と思ってたんですが、実は正解だったわけですね!? うーむ聞いてみるものだ… 擬音でいうと「ザシュっ」ではなく「ドカっ」という音が方々で響く戦場か…参考になりました!
304: 2002/10/21(月) 22:45 岡本 2002年03月24日日曜日 23時16分 ぐっこ様 >BSドラマの雑兵が、へっぴり腰に「えいえいえいっ」みたいな >矛の振り回し方をしていて 大体は上記の内容でよいと思いますが、公孫瓚伝に少々気がかりな記述もありまして。 若き日の公孫瓚が匈奴の部隊との遭遇戦の際”刃を両側につけた矛”で敵中突破したという記述です。注の絵を見る限りでは”戟刀”にもう一つ月牙をつけた文字通り後世の方天戟になりますので。この問題の”両刃矛”がどのようなものだったのかは私にとっては謎です。 呂布の射た戟の形状も疑問です。多分上記のト型の戟の戈を柄に装着している部分に射当てたと思うのですが...。吉川三国志や三国志演義では戟刀の月牙に当てて砕いたことになっています。 典イの双鉄戟自体も80斤の1つの方天戟を持っていたのか、40斤の通常の戟を2本もっていたのか2説あります。 似た例で、甘寧が凌統といさかいを起こして呂蒙にとめられたとき、”双戟”の舞を見せています。これは2本の戟を持つ舞のようですので、典イの双鉄戟は2本の戟と私は解釈していますが。 >所詮は後生作家の作品…(;^_^A」 ええ、”講釈師、見てきたような嘘をいい”ではありませんが。”うまく騙してくれるなら喜んで騙されよう、学術的意義に抵触しない限り”、でいいと思います。
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
★☆蒼天航路スレッド☆★ http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1034771727/l50