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三国雑談スレ ◆奥の方のテーブル◆
158: 2002/11/02(土) 13:01 ぐっこ 2002年03月24日日曜日 22時42分 「何か委員会の総司令部を作ってみました(^-^; まあ、要するに過去ログを並べただけとか、前作ってたぶんをまとめてみただけとか、そういうものですけど…。 改めて一から読んでると、本当に、みなさま凄い! ただただ感心しながらログをまとめておりました! この場をお借りして、皆様に感謝させてください!m(__)m 本当にこの1年4ヶ月の間、ありがとうございました! ……って、何か最終回みたいな挨拶ですな(^_^;) これからも、皆様に頼りっぱなしになること確定なへぼ管理人ですが、どうぞ宜しくお願いいたします! 管理人の役目は、皆様に情報を出し合う「場」をお貸しすること、と割り切って、またまた皆様の議論に参加させてください(^-^;」
159: 2002/11/02(土) 13:01 玉川雄一 2002年03月25日月曜日 00時50分 なんかすげェゴジャースになってる! …しかし、私スレ立ててばっかですねえ。 今思えば結構恥ずかしいこと言ってるし… でも、ここで色々と学べてめっちゃんこ有意義ですわん。 これからもゴリゴリ行くですよ。
160: 2002/11/02(土) 13:01 左平(仮名) 2002年03月25日月曜日 21時38分 これはまた、随分と読み応えのあるものに…。 私の方は、玉川さんほどにはスレッドを立てられない(立てる程のネタが出てこない)ですが、時々はチクチクと指摘できれば…といったところです。
161: 2002/11/02(土) 13:02 ぐっこ 2002年03月26日火曜日 00時14分 >玉様 とんでもない!玉様のスレ起こしのおかげで、これだけ繁盛したですよ!本当に感謝です! 呉のタイムパラドクスネタとかも盛り上がったなあ…。あの夜、楽しかったです〜! >左平(仮名)様 読み応えは凄まじくあります(^-^; 全部目を通すと3時間くらいかかったかな…。スレ立て云々じゃなくて、左平(仮名)様にもずいぶんと助けられました!ありがとうございます!
162: 2002/11/02(土) 13:02 中根東竜 2002年03月26日火曜日 01時18分 お久しぶりです、何か委員会、拝読しました〜。 相も変わらず濃いですね〜。読みふけってしまいました。 まあ、スレが沈んでしまった後に追跡調査してたことを 折角コーナーも出来たことですし、書いておきます〜。 1,趙氏の系図について 趙氏に関しては最近中国で専門の書が出ました。 神保町を例の如くふらついていてハケーンしたのですが、 余りにも内容が濃すぎて何ともまだ読み切れていません。 この本は姓氏の歴史の叢書の一冊で、特に神話関係に詳しいです。 また、この書では趙佗ー趙雲同族説は採っていませんでした・・ (言及なし) 2,瑯邪の王氏はコーエーゲーに既に登場 『三國志3』に、王祥・王覧の父、王基が登場しています。 3ではお気に入りでよく使っていました。しかしその後の シリーズには出てませんなぁ。なお、ぐっこさんが 王羲之は書の正流なのか、とおっしゃられてましたが、 まあ規範と言っていいと思います。みな書をやる人は 一度は王羲之の書を通過しないといけないみたいな 感じですかね。なお、王氏はみな書に堪能であり、 趙宋の『淳化閣帖』という名筆を集めた本に 多数の王氏出身書家たちの書がみられます。 3,陶侃と陶潜の関係は正式には不明? 最近、故・李長之氏の陶淵明(陶潜)に関する 史伝『陶淵明』(筑摩書店)を読んでいたら、 陶侃に関してかなり長く書かれていました。 で、この本によると陶侃ー陶潜の関係は 「陶潜が書き残した陶侃に関する記録を巡って 学会で論争されており、直系なのか単なる親戚か 分かっていない」ということのようです。 まあこの件では『晉書』はシロですね。 正直、この本を読むと陶侃にしろ陶淵明にしても 謎の多い人物であることが身にしみて分かります。 まあ、彼らは変な邪推を受ければ命が危ない 時代に生きているので、必然的に筆が曖昧になるようです。 後の世から忠誠を謡われる陶侃にしても謀反をたくらんだようです。 事実、李氏が指摘するとおり陶侃は晋の王室が反乱で危機に 陥ってもまともに兵を出そうともしておらず、 (一度は出したがすぐに帰ってきてしまっている) 説客・温矯(刺史奮迅の温恢の子孫ですな)の説得で ようやく重い腰を上げています。 この人も色々あるみたいですねぇ・・
163: 2002/11/02(土) 13:02 玉川雄一 2002年03月26日火曜日 18時56分 中根さんにいくつか。 1:王基 王祥・王覧の父は王融ではないでしょうか。晋書王祥伝の初っぱなに載っていますよね。 で、王基(伯輿)は直接の繋がりはないかと思われますが。彼は年齢的には王祥・王覧と同世代だと思われますし。 で、王祥系の琅邪王氏は結局登場していませんが、王基は3以降最新作の8まで皆勤賞レギュラーなんですよ。 顔グラは一貫して同じイメージを踏襲していますが、6の時は妙に生々しくて恐かったのを今でも鮮明に覚えてます(-_-;) やや過小評価気味かとも思われますが、まずバランスの取れた名将です。 ところで、王覧の子にして王敦の父である処の人も「王基」といいますよね。 となると、王基−王覧−王基−王敦というのは成り立たないかと思われます。 2:陶侃と陶淵明 私が過去に立てたスレ読むと恥ずかしくなってきますが… 結局確実な資料はないのでしょうが、陶侃は子が17人、 うち史料に残っているのが洪、瞻、夏、[王奇]、旗、斌、稱、範、岱の9人だそうですので、 残りの8人の中に陶茂(陶淵明の爺ちゃん)が入っている可能性なきにしもあらず、と。 3:陶侃の野望(笑) 先日陶侃伝や世説新語を読んだのですが、一筋縄ではいかない人物だったようですね。 蘇峻の乱の際、先帝の遺詔をうけられなかったのをゴネてユ亮に頭を下げさせたとか、例の「八枚の羽根」の夢とか。 陶侃びいきの私としては、胸に大望を抱きつつも心はあくまで東晋王朝に… と考えたいところですが、何だか考えを改めた方が良さそうです(^_^;)ゞ 結果論からいうと、「韓信のもう一つの生き方」? それも違うか。 ところで、山川の中国史に陶侃が五谿蛮の出身だったかも、って載ってました。 晋書には[番β]陽の人とありますけど… 五谿蛮って武陵ですよね。
164: 2002/11/02(土) 13:03 玉川雄一 2002年03月26日火曜日 21時07分 山川受け売りですが、陶侃などについて。 『中国史 2 三国−唐』のpp.90,91に「北府と西府」と題して東晋初期〜中期の体制について触れられています。 それによると、 ・(前項より)江南土着の豪族は次第に北来の人士に主導権を奪われていった ・河北の混乱の中、豪族や有力者は軍事力を有する集団を形成し、南方に移動した ・東晋王朝はその統率者(塢主、行主)を刺史や太守に任命して取り込みを図る ・代表的なものは、祖逖(のち弟の祖約)、チ鑒、蘇峻など ・一方、西方(荊州)では王敦が江南豪族を支配下に収め、次第に朝廷と対立し叛乱を起こす ・その鎮圧に北来の軍事力が投入されるが、彼らが力を持ちすぎるのを恐れた外戚のユ亮は勢力削減を図る ・それに反して蘇峻、祖約が叛乱するが、チ鑒、陶侃や温キョウに鎮圧される ・この後、北来勢力の残存者であるチ鑒は北面の軍団長として「北府」を設立、京口や広陵に駐屯する ・王敦に替わって西方の軍団長となった陶侃は征西大将軍、都督荊湘雍梁諸軍事、荊州刺史として「西府」を形成した ・チ鑒は司空、陶侃は太尉として東晋王朝を支える二大軍閥となる ・陶侃は朝廷とは距離を置き、その後はもっぱら荊州の統治と西・北方への軍事行動に従事した ・陶侃の後は(北来の)ユ亮、ユ翼が後を継ぎ、朝廷の王導と拮抗した ここでもやはり、蘇峻の乱に際しての陶侃の腰の重さが指摘されています(^_^;) こと荊州に関しては、四世紀初頭の劉弘の頃から半独立めいた雰囲気があったようですし。叛乱もボコスカ起きてますが。 代々キャスティングボートを握りつつ上手く渡ってきたようですけど、 そのバランスが崩れると桓温みたいなのが出てくるわけですな(-_-;)
165: 2002/11/02(土) 13:03 ぐっこ 2002年03月26日火曜日 23時53分 うおっとお! 中根東竜様、玉様、毎度ありがとうございます! …あれ、中根東竜様のサイト、サンクスバナー付けてなかった…! すぐ工事します!(__;) ――むう、このスレも先祖スレ集に含まねばなるまい!(^_^;) 相変わらず濃ゆい議論サンクスです! 私は王基認知、ゲームからの人なので、まずあの顔がうかびます(^_^;) 陶侃…玉様のカキコミで初めて存在を知ったクチです…。「韓信のもう一つの生き方」…なるほど! …うーむ、それにしても勉強になる掲示板だなあ…。多謝多謝!
166: 2002/11/02(土) 13:03 中根東竜 2002年03月27日水曜日 00時37分 玉川さん、詳細なフォローありがとうございます! >王祥・王覧の父は王融ではないでしょうか。 か、勘違いしていました。そうです、王融です。 何処で間違えて覚えたのか・・これまでずっと 誤っていました。ご教示ありがとうございます。 >で、王祥系の琅邪王氏は結局登場していませんが、王基は3以降最新作の8まで皆勤賞レギュラーなんですよ。 グガーン!もう一つ間違っていたのか・・ なんか、コーエー『三国志5』事典に「王基は3にのみ登場」 とあるのを鵜呑みにしていたようです・・ 自分王基関係全然だめじゃん・・参った・・ 色々フォローありがとうございます。 >陶侃は子が17人、 うち史料に残っているのが洪、瞻、夏、[王奇]、旗、斌、稱、範、岱の9人だそうですので、 残りの8人の中に陶茂(陶淵明の爺ちゃん)が入っている可能性なきにしもあらず、と。 実際『晉書』や『宋書』では玉川さんのおっしゃる通りです。 まあそれでよさそうなものなのですが、学会ではこれに対する反対意見も根強いようで、「現存の史料に即して論ずる限り、より明確な 答案は得られない」と李氏はしていますねぇ・・ 何故反対意見が出るかというと、 どうも陶淵明自身が「陶侃は自分の先祖」 と主張しているのかどうか怪しいうえ、 陶淵明の友人が書いた陶淵明を 追悼して書かれた伝記『陶徴士誄』(とうちょうしるい)が 陶侃について一言も触れていない、からだそうで・・ (詳しく書くと以上に回りくどいうえ、何かもはや『三国志』とは関係なくなっているみたいなのでこの話はここで切ります) >蘇峻の乱の際、先帝の遺詔をうけられなかったのをゴネてユ亮に頭を下げさせたとか、 この蘇峻の乱の時の陶侃はゴネまくってます。なんか驚きですよ〜。 なお、このゴネ陶侃に関しては『晉書』巻67温矯伝に説得内容と 合わせて載っているようですよ。(あ、矯の字は正しくは ヘンが山ヘンね)なお、温矯の説得は流石に温恢譲りの 朗々たる大文章です。僕はこれを読んで温矯ファンになったなー。 >ところで、山川の中国史に陶侃が五谿蛮の出身だったかも、って載ってました。 え、そうですか?史料には「渓族」とあるのですが、 「渓族=五谿蛮」でいいんでしょうか? 陶侃は谿族出身だそうです。「谿族」は「巴・蜀・蛮・僚(けものへんが正しい)・谿・俚・越・楚」を総称する言葉だそうです。 (ソースは例の牛氏が司馬睿の親父であることを書いた『魏書』司馬叡伝) しかし、これだと南蛮・山越みんなひっくるめて居るだけっぽいですが (^^;) >山川の「北府と西府」 まとめるとこんな感じですね。まあ、荊州に関しては司馬一族 が送り込まれて反乱軍に殺されて劉弘が入った後、まるで晋中央 が統治できてないんですよねぇ。劉表とかの頃と実は余り 変わらない情勢がずっと継続するわけです。
167: 2002/11/02(土) 13:04 ジーク 月が変わってネットが再び出来るようになりましたんで、総司令部の探索をして参りました。 ………こ、これわ…(;^_^A ネット三国志界の大御所聯の方々が繰り広げるいと凄まじき三国志スレの数々……。 私の不勉強をいたいほど痛感させられましたです。 というか現在ネタ本の筑摩が手元に存在していないので話の確認すら出来ない…(T_T) で、こちらにきたらきたで、三國志II上級城防御度激上がりモードよろしく話に割り込む事すら出来ない凄まじさ。 わたしまけましたわ…と何の意味も無く回文で呟いてみる私(;^_^A と言う訳でしばらく勉強しなおしてから出直します(爆) 少なくとも高校にあるちくまの三國志がないことにはどうにも。
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