三国雑談スレ ◆奥の方のテーブル◆
164:2002/11/02(土) 13:03AAS

玉川雄一     2002年03月26日火曜日 21時07分

 山川受け売りですが、陶侃などについて。
『中国史 2 三国−唐』のpp.90,91に「北府と西府」と題して東晋初期〜中期の体制について触れられています。
それによると、

・(前項より)江南土着の豪族は次第に北来の人士に主導権を奪われていった
・河北の混乱の中、豪族や有力者は軍事力を有する集団を形成し、南方に移動した
・東晋王朝はその統率者(塢主、行主)を刺史や太守に任命して取り込みを図る
・代表的なものは、祖逖(のち弟の祖約)、チ鑒、蘇峻など
・一方、西方(荊州)では王敦が江南豪族を支配下に収め、次第に朝廷と対立し叛乱を起こす
・その鎮圧に北来の軍事力が投入されるが、彼らが力を持ちすぎるのを恐れた外戚のユ亮は勢力削減を図る
・それに反して蘇峻、祖約が叛乱するが、チ鑒、陶侃や温キョウに鎮圧される
・この後、北来勢力の残存者であるチ鑒は北面の軍団長として「北府」を設立、京口や広陵に駐屯する
・王敦に替わって西方の軍団長となった陶侃は征西大将軍、都督荊湘雍梁諸軍事、荊州刺史として「西府」を形成した
・チ鑒は司空、陶侃は太尉として東晋王朝を支える二大軍閥となる
・陶侃は朝廷とは距離を置き、その後はもっぱら荊州の統治と西・北方への軍事行動に従事した
・陶侃の後は(北来の)ユ亮、ユ翼が後を継ぎ、朝廷の王導と拮抗した

ここでもやはり、蘇峻の乱に際しての陶侃の腰の重さが指摘されています(^_^;)
こと荊州に関しては、四世紀初頭の劉弘の頃から半独立めいた雰囲気があったようですし。叛乱もボコスカ起きてますが。
代々キャスティングボートを握りつつ上手く渡ってきたようですけど、
そのバランスが崩れると桓温みたいなのが出てくるわけですな(-_-;)
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