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三国雑談スレ ◆奥の方のテーブル◆
166:2002/11/02(土) 13:03AAS
中根東竜 2002年03月27日水曜日 00時37分
玉川さん、詳細なフォローありがとうございます!
>王祥・王覧の父は王融ではないでしょうか。
か、勘違いしていました。そうです、王融です。
何処で間違えて覚えたのか・・これまでずっと
誤っていました。ご教示ありがとうございます。
>で、王祥系の琅邪王氏は結局登場していませんが、王基は3以降最新作の8まで皆勤賞レギュラーなんですよ。
グガーン!もう一つ間違っていたのか・・
なんか、コーエー『三国志5』事典に「王基は3にのみ登場」
とあるのを鵜呑みにしていたようです・・
自分王基関係全然だめじゃん・・参った・・
色々フォローありがとうございます。
>陶侃は子が17人、
うち史料に残っているのが洪、瞻、夏、[王奇]、旗、斌、稱、範、岱の9人だそうですので、
残りの8人の中に陶茂(陶淵明の爺ちゃん)が入っている可能性なきにしもあらず、と。
実際『晉書』や『宋書』では玉川さんのおっしゃる通りです。
まあそれでよさそうなものなのですが、学会ではこれに対する反対意見も根強いようで、「現存の史料に即して論ずる限り、より明確な
答案は得られない」と李氏はしていますねぇ・・
何故反対意見が出るかというと、
どうも陶淵明自身が「陶侃は自分の先祖」
と主張しているのかどうか怪しいうえ、
陶淵明の友人が書いた陶淵明を
追悼して書かれた伝記『陶徴士誄』(とうちょうしるい)が
陶侃について一言も触れていない、からだそうで・・
(詳しく書くと以上に回りくどいうえ、何かもはや『三国志』とは関係なくなっているみたいなのでこの話はここで切ります)
>蘇峻の乱の際、先帝の遺詔をうけられなかったのをゴネてユ亮に頭を下げさせたとか、
この蘇峻の乱の時の陶侃はゴネまくってます。なんか驚きですよ〜。
なお、このゴネ陶侃に関しては『晉書』巻67温矯伝に説得内容と
合わせて載っているようですよ。(あ、矯の字は正しくは
ヘンが山ヘンね)なお、温矯の説得は流石に温恢譲りの
朗々たる大文章です。僕はこれを読んで温矯ファンになったなー。
>ところで、山川の中国史に陶侃が五谿蛮の出身だったかも、って載ってました。
え、そうですか?史料には「渓族」とあるのですが、
「渓族=五谿蛮」でいいんでしょうか?
陶侃は谿族出身だそうです。「谿族」は「巴・蜀・蛮・僚(けものへんが正しい)・谿・俚・越・楚」を総称する言葉だそうです。
(ソースは例の牛氏が司馬睿の親父であることを書いた『魏書』司馬叡伝)
しかし、これだと南蛮・山越みんなひっくるめて居るだけっぽいですが
(^^;)
>山川の「北府と西府」
まとめるとこんな感じですね。まあ、荊州に関しては司馬一族
が送り込まれて反乱軍に殺されて劉弘が入った後、まるで晋中央
が統治できてないんですよねぇ。劉表とかの頃と実は余り
変わらない情勢がずっと継続するわけです。
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