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三国雑談スレ ◆奥の方のテーブル◆
253:japan2004/01/12(月) 22:00
>曲者なのは「○亭侯」とかでしょうね。「○亭」侯なのか「○」亭侯なのか、と。
「魏書」巻十三に立伝されている三人の爵位の変遷を調べたところ、
以下のようになっていました。
・鍾ヨウ
献帝が長安を脱出して曹操の元に辿り着いた頃、
それまでの功績により東武亭侯にとりたてられた。
↓
魏文帝が禅譲を受けた際、崇高郷侯に「爵位があがった」。
↓
廷尉から太尉に昇進するに伴い、平陽郷侯に「領土がえされた」。
↓
明帝が位に就くと、定陵侯に「爵位があが」った。
・華キン
文帝が王位に就くと、安楽郷侯に封じられた。
↓
明帝が即位すると、「昇進して」博平侯に封じられた。
・王朗
文帝が王位に就くと、安陵亭侯に封じられた。
↓
文帝が帝位に就くと、楽平郷侯に「昇進した」。
↓
明帝が即位すると蘭陵侯に「昇進し」た。
※「」内はちくま学芸文庫ママ
これを見ると、○○侯>○○郷侯>○○亭侯という序列が存在するようです。
関羽が漢寿亭侯に封じられたのは、一介の客将に過ぎない彼を
県侯や郷侯に封じることは不可能だったのか、
或いは当時の曹操の権限では、亭侯までしか上奏することができなかったのか…?
という訳で、「漢寿亭侯」は「『漢』の『寿亭』侯」ではなく、
「『漢寿』亭侯」ではないかと思います。(高島先生の受け売りですが…^^;)
ちなみに「斉王紀」の裴注に収録されている斉王芳弾劾の上奏文には、
定陵侯鍾イク・博平侯華表・蘭陵侯王粛の名前が記されています。
こういうのを見ると「ちゃんと爵位が世襲されているんだな〜」と感心したり、
魏建国の功臣達の子孫が、ほんの数十年後にはそろって司馬氏に
追従していることに悲しくなってみたり……
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