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【味好漢】谷利促進週間【名脇役】
12:2002/11/01(金) 22:14
左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 21時51分
NOBさんの「逸聞三國志」に行って参りました。谷朗のプロフィ−ルは、以下の様になっています。
谷朗、字は義先、桂陽郡耒陽県の人、219生〜272没
曽祖父は豫章太守、祖父は「公府君(府君は、太守という意味だとか。任地は不明との事)」、父は郎中で、谷朗が11歳の時に(という事は、NOBさんが算出された谷朗の生年から計算すると、229年、孫権が皇帝に即位したまさにその年に!)亡くなっています。
省16
13:2002/11/01(金) 22:14
左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 22時13分
谷利と谷朗との関係ですが、私が思いますには、(全くの推測ですが)おじ(伯父なのか叔父なのかは不明ですが、伯父っぽく思います)と甥の関係だったのではないか、と。
理由は、まず第一に、谷利が亡くなった時に郎中というのは考えにくいからです。「郎中」という官は、宮中に宿直し、警護にあたる(実際には、雑用係の様な存在だったらしい)存在です。ですが、孫権が「宮廷」を持ったのは、王位に就いた221年(この時は魏による任命。翌222年に独立)以降の事。谷利が仕えてからはだいぶ経っています。いくら何でも、その時に郎中では、昇進が遅すぎます。
第二に、NOBさんもおっしゃっていますが、谷朗の父の死後(母は既に亡くなっていました)、だれが彼等(弟が一人いたそうです)を援助したか、です。
省9
14:2002/11/01(金) 22:14
左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 22時18分
それにしても……↑の様に、えらく知ったかぶりして書きましたが、根拠は全くないんですよね、これが。
そもそも、谷利と谷朗の間に血縁関係があるかどうかもさっぱり(私の方では)分からないわけですし。
15:2002/11/01(金) 22:15
ぐっこ 2002年01月07日月曜日 23時10分
左平(仮名)様、さっそくの調査ありがとうございます!
いま私も遅ればせながら逸聞三國志を拝見!「逍遥雑記」の12月15日からですね〜!
NOBさまは、なんと「谷朗碑記」という「書」の史料から谷朗を発見されてます!凄いなあ…。
省17
16:2002/11/01(金) 22:15
左平(仮名) 2002年01月08日火曜日 21時20分
先に、私が谷利の境遇をいうのに、「明の鄭和」の例を出しましたので、実際のところはどうなのかなぁと思い、「孫破慮討逆将軍伝」ほかをざっと見てみました(桂陽の帰属の確認:漢文全くダメな私ですから、すべて筑摩の和訳本によります)。
どうやら、孫策の生前は、この辺りは劉表の(緩やかな)支配下にあったものと思われます(その後、官渡の戦いの頃に、張羨という人物が劉表から自立。その後、劉表の支配確立→趙範→…)。
と、なると、鄭和の様に、被征服民が宦官にされ、王侯の奴隷にされたというのとは、事情が異なってきます。
17:2002/11/01(金) 22:15
左平(仮名) 2002年01月08日火曜日 21時55分
では、谷利が(宦官として?)孫氏の配下となった事情を(具体的な根拠は全く無しで)物語化してみると…
注:ここでは、谷利と谷朗の父は兄弟として話を進めます。この二人の他にも兄弟はいたのでしょうが…。
省18
18:2002/11/01(金) 22:15
ぐっこ 2002年01月09日水曜日 21時19分
うおおおう! 左平(仮名)さま! ナイスです!
これもまた一つの説にもつながる! ウオーミングアップがわりに、ひとつ左平(仮名)様が挑戦されてはいかがでしょう!?
省8
19:孫ぽこ2003/11/15(土) 05:35
大昔のスレッドを上げて申し訳ない(汗)
呉書外伝で谷利について書くことになりました。で、ここの谷利伝の引用リンクをお許し下さいませ♪
ではではー。
20:★ぐっこ2003/11/16(日) 00:06
お久しぶりです部長!(←懐かしいなあオイ)
当然ながらOKであります!
ていうかリニューアル乙&おめ!
今ひさびさに味好漢列伝読んで赤面…。うーん。若いっていいですねえ…
21:左平(仮名)2003/11/16(日) 00:32
私の方も、全く問題はありません。
ただ、ほとんど妄想で書いたものなので、呉書外伝に
リンクというのは、ちょっと面映いものがありますね。
えっ?こんなのでいいのですか?って感じで。
ちょっと、読み返すのが恥ずかしいです。
省8
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