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【味好漢】谷利促進週間【名脇役】
13: 2002/11/01(金) 22:14 左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 22時13分 谷利と谷朗との関係ですが、私が思いますには、(全くの推測ですが)おじ(伯父なのか叔父なのかは不明ですが、伯父っぽく思います)と甥の関係だったのではないか、と。 理由は、まず第一に、谷利が亡くなった時に郎中というのは考えにくいからです。「郎中」という官は、宮中に宿直し、警護にあたる(実際には、雑用係の様な存在だったらしい)存在です。ですが、孫権が「宮廷」を持ったのは、王位に就いた221年(この時は魏による任命。翌222年に独立)以降の事。谷利が仕えてからはだいぶ経っています。いくら何でも、その時に郎中では、昇進が遅すぎます。 第二に、NOBさんもおっしゃっていますが、谷朗の父の死後(母は既に亡くなっていました)、だれが彼等(弟が一人いたそうです)を援助したか、です。 そう考えると、おじである谷利が、兄弟の死後、その遺児である谷朗兄弟を援助したとするのが最も無難だと思うのです。 …ただ、彼の没年は、272年。ひょっとしたら、『晋書』の方が詳しいのかも…。 【蛇足。ふっと思ったのですが、ひょっとしたら、谷利は宦者だったかも知れません。孫氏が桂陽とどう関わったかにもよるのですが、明の鄭和の様な事も考えられないではありません。「親近監」というのも、ちょっとそれっぽい感じがします。】
14: 2002/11/01(金) 22:14 左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 22時18分 それにしても……↑の様に、えらく知ったかぶりして書きましたが、根拠は全くないんですよね、これが。 そもそも、谷利と谷朗の間に血縁関係があるかどうかもさっぱり(私の方では)分からないわけですし。
15: 2002/11/01(金) 22:15 ぐっこ 2002年01月07日月曜日 23時10分 左平(仮名)様、さっそくの調査ありがとうございます! いま私も遅ればせながら逸聞三國志を拝見!「逍遥雑記」の12月15日からですね〜! NOBさまは、なんと「谷朗碑記」という「書」の史料から谷朗を発見されてます!凄いなあ…。 谷朗、字は義先。 桂陽郡耒陽県の人で、その曾祖父は預章の太守、祖父は桂陽(?)の太守。父は谷朗が11歳のとき(230年くらいに)郎中のまま亡くなってる、と。 谷朗は3歳で母を、11歳で父を失い、以後幼い弟と二人で暮らしたとか。もちろん地方豪族の谷氏ですので、後見人がいたのでしょうが…。若くして郡に出仕し、中央、地方、武官職などを歴任。有能で清廉な人物として称えられたが、九真太守の在官中、若くして病死。 この谷朗碑は、彼を悼んだ人々が立てたものだそうです……。 …以上、NOBさまのサイトから勝手に引用! あはは、はやく謝りに行って来よう(;^_^A で、このなかで触れられてるように、この桂陽谷氏は、秦王室から分かれたほどの名門であり、その地方では相当有名な家だったはず。 これはあくまで妄想ですが、谷利がこの桂陽谷氏の一員であったとすると、とてもではないけど誉められた立場ではなかったでしょう。 孫家のような出来星の武門に仕え、しかも下僕のように「利!」と名前で追い使われてるなんて…。 左平(仮名)様の推察どおり、わたしも谷利を半分くらいの可能性で宦官と思ってます(だから旧味好感列伝の谷利イラストはそれっぽい顔…)。あくまで孫権のプライベートな臣下に徹した姿勢も、なんとなくそれっぽいし…。(昔このこと言ったら、さる女性に「ぐっこさんはヲトメのツボを突くのが上手いと」言われました(*^^*)…)
16: 2002/11/01(金) 22:15 左平(仮名) 2002年01月08日火曜日 21時20分 先に、私が谷利の境遇をいうのに、「明の鄭和」の例を出しましたので、実際のところはどうなのかなぁと思い、「孫破慮討逆将軍伝」ほかをざっと見てみました(桂陽の帰属の確認:漢文全くダメな私ですから、すべて筑摩の和訳本によります)。 どうやら、孫策の生前は、この辺りは劉表の(緩やかな)支配下にあったものと思われます(その後、官渡の戦いの頃に、張羨という人物が劉表から自立。その後、劉表の支配確立→趙範→…)。 と、なると、鄭和の様に、被征服民が宦官にされ、王侯の奴隷にされたというのとは、事情が異なってきます。
17: 2002/11/01(金) 22:15 左平(仮名) 2002年01月08日火曜日 21時55分 では、谷利が(宦官として?)孫氏の配下となった事情を(具体的な根拠は全く無しで)物語化してみると… 注:ここでは、谷利と谷朗の父は兄弟として話を進めます。この二人の他にも兄弟はいたのでしょうが…。 その地では名門であった桂陽谷氏だったが、乱世にあい、その家名は衰退しつつあった。家長(谷朗の曽祖父)は年老い、家を支えるはずだった嫡子(谷朗の祖父)は既に亡い。頼みの孫(谷朗の父。あるいは、その兄。谷利は庶子と考えています)はまだ幼い…。 劉表が、いま、荊州の主となっているが、どうも肌が合わない(あるいは、劉表の支配に反発していた)。 そこで、他の有力者・孫策に一族の子弟を差し出し(人質みたいなもの)、その助力を仰ぐ事とした。その子弟こそ、谷利である。 が、孫策にとって、桂陽谷氏の存在価値は低かった。その為、谷利は、孫策ではなく、その弟・孫権の近従にあてがわれた。 さいわい、年が近いという事もあり、二人の関係は割と良く、史書にもそのエピソ−ドが残る事になった。 谷利は、幼くして近従とされた為、深い教養を身につける事はなかったが、基礎的な教育は受けており、また、自らの立場をよくわきまえていた為、孫権の寵愛を受けてもそれに狎れる事はなかった。たとえ身分は低くとも、士大夫の子弟としての矜持を持っていたのである…。 谷利が孫権に仕える様になってから二十年以上の時が経ち、孫権が王となった時、孫権は、彼の忠勤に報いるべく、その弟(谷朗の父)を召し出し、郎中に任じた。 惜しい事に、彼は(恐らく三十そこそこで)若くして亡くなったが、孫権の側近として影の実力者となっていた谷利が、残された谷朗兄弟を支援した。そして、谷朗が無事に成長し、出仕したのを見届けて、谷利は静かにその生涯を閉じた…。 その葬儀は、きわめて質素なものであったが、少なからぬ名士たちが集まった。そこで谷朗は、自らの歩むべき道を悟るのであった…。 一族の危機を救う為、あえて自らの身を貶めた谷利。そんなおじの思いを悟り、名太守となった谷朗。 全編妄想のみで駄文を書き連ねてみましたが、いかがでしょうか?もっと筆力のある方なら、一編の美しい小説ができる事でしょう。
18: 2002/11/01(金) 22:15 ぐっこ 2002年01月09日水曜日 21時19分 うおおおう! 左平(仮名)さま! ナイスです! これもまた一つの説にもつながる! ウオーミングアップがわりに、ひとつ左平(仮名)様が挑戦されてはいかがでしょう!? 宦官の是非はおいといて、谷利が庶子…というのは説得力ある設定ですよね〜。孫策ではなく孫権に下げ渡され、一生の忠誠を尽くすことになる…というのもまたグー! で、谷朗と繋がってゆく、と…! ああ、時間さえあれば私もなんか書いてみたいです!この作品!
19:孫ぽこ 2003/11/15(土) 05:35 大昔のスレッドを上げて申し訳ない(汗) 呉書外伝で谷利について書くことになりました。で、ここの谷利伝の引用リンクをお許し下さいませ♪ ではではー。
20:★ぐっこ 2003/11/16(日) 00:06 お久しぶりです部長!(←懐かしいなあオイ) 当然ながらOKであります! ていうかリニューアル乙&おめ! 今ひさびさに味好漢列伝読んで赤面…。うーん。若いっていいですねえ…
21:左平(仮名) 2003/11/16(日) 00:32 私の方も、全く問題はありません。 ただ、ほとんど妄想で書いたものなので、呉書外伝に リンクというのは、ちょっと面映いものがありますね。 えっ?こんなのでいいのですか?って感じで。 ちょっと、読み返すのが恥ずかしいです。 しかし、もう二年近くになるのですね。気がつくと、四作目ですし。 (四作目はいつ完結できるんでしょ)
22:孫ぽこ 2003/11/16(日) 01:52 ご了承サンクスです♪ 谷利については、周瑜伝がアップ終了してから、アップする事になりますので一週間後くらいですね。
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