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【味好漢】谷利促進週間【名脇役】
17:2002/11/01(金) 22:15
左平(仮名) 2002年01月08日火曜日 21時55分
では、谷利が(宦官として?)孫氏の配下となった事情を(具体的な根拠は全く無しで)物語化してみると…
注:ここでは、谷利と谷朗の父は兄弟として話を進めます。この二人の他にも兄弟はいたのでしょうが…。
その地では名門であった桂陽谷氏だったが、乱世にあい、その家名は衰退しつつあった。家長(谷朗の曽祖父)は年老い、家を支えるはずだった嫡子(谷朗の祖父)は既に亡い。頼みの孫(谷朗の父。あるいは、その兄。谷利は庶子と考えています)はまだ幼い…。
劉表が、いま、荊州の主となっているが、どうも肌が合わない(あるいは、劉表の支配に反発していた)。
そこで、他の有力者・孫策に一族の子弟を差し出し(人質みたいなもの)、その助力を仰ぐ事とした。その子弟こそ、谷利である。
が、孫策にとって、桂陽谷氏の存在価値は低かった。その為、谷利は、孫策ではなく、その弟・孫権の近従にあてがわれた。
さいわい、年が近いという事もあり、二人の関係は割と良く、史書にもそのエピソ−ドが残る事になった。
谷利は、幼くして近従とされた為、深い教養を身につける事はなかったが、基礎的な教育は受けており、また、自らの立場をよくわきまえていた為、孫権の寵愛を受けてもそれに狎れる事はなかった。たとえ身分は低くとも、士大夫の子弟としての矜持を持っていたのである…。
谷利が孫権に仕える様になってから二十年以上の時が経ち、孫権が王となった時、孫権は、彼の忠勤に報いるべく、その弟(谷朗の父)を召し出し、郎中に任じた。
惜しい事に、彼は(恐らく三十そこそこで)若くして亡くなったが、孫権の側近として影の実力者となっていた谷利が、残された谷朗兄弟を支援した。そして、谷朗が無事に成長し、出仕したのを見届けて、谷利は静かにその生涯を閉じた…。
その葬儀は、きわめて質素なものであったが、少なからぬ名士たちが集まった。そこで谷朗は、自らの歩むべき道を悟るのであった…。
一族の危機を救う為、あえて自らの身を貶めた谷利。そんなおじの思いを悟り、名太守となった谷朗。
全編妄想のみで駄文を書き連ねてみましたが、いかがでしょうか?もっと筆力のある方なら、一編の美しい小説ができる事でしょう。
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