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【味好漢】谷利促進週間【名脇役】
7: 2002/10/26(土) 23:54 japan[関東] > (2001/02/20(Tue) 19:04:33) 主の命令に叛いても、主の命を護る… 言葉にすれば簡単ですが、中々できることではないです。 もし諡を付けるとすれば「剛侯」もしくは「威侯」といった ところでしょうか。
8: 2002/10/26(土) 23:54 ぐっこ[近畿] > (2001/02/20(Tue) 22:34:18) やはり船頭に刀突きつけて「戻れ」っていうのは 茶坊主ではできませんよね〜! 谷利さんカッコイイ!
9: 2002/10/26(土) 23:55 TMK[関東] > (2001/02/22(Thu) 23:59:08) 私のHPにも谷利さん関連のことをアップしました。 宜しければ見に来てくださいね。
10: 2002/11/01(金) 22:13 NOB 2002年01月06日日曜日 22時31分 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします(^-^) ところでいきなりですが、谷利の推定生没年と最終官職ってご存じないでしょうか?昨年末ですが、九真太守だった呉の谷朗を調べていたら曽祖父・祖父ともに太守で父が郎中(早死らしい)と分かったので、どれかが谷利に該当しないかと、妄想をたくましくしてみたのですが…(笑) というわけで(←何がだ//爆)、本年もよろしくです!
11: 2002/11/01(金) 22:13 ぐっこ 2002年01月07日月曜日 00時21分 谷利関係ッ!?!?!? 喝ッ! そういえば一年ほど前谷利促進委員会総帥であった私にとって、いまのNOBさまは神っ! あ、あけましておめでとうございます。お体の調子は如何でしょうか? …もいいけど! 谷利! うーん、少なくとも三国志の記録の中では「親近監」「都亭侯に任じ」しかないので何とも申しようがないのですが…。 その九真太守谷朗なる人物! 何者!? どのくらいの年度の人物でしょうか!? もし早世した父が谷利だとすれば…谷利の父や祖父は代々太守の職にあったということに! どのあたりに地盤がある人物かも判別できるわけですか!? 妄想膨らませましょう! 続報待ち!
12: 2002/11/01(金) 22:14 左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 21時51分 NOBさんの「逸聞三國志」に行って参りました。谷朗のプロフィ−ルは、以下の様になっています。 谷朗、字は義先、桂陽郡耒陽県の人、219生〜272没 曽祖父は豫章太守、祖父は「公府君(府君は、太守という意味だとか。任地は不明との事)」、父は郎中で、谷朗が11歳の時に(という事は、NOBさんが算出された谷朗の生年から計算すると、229年、孫権が皇帝に即位したまさにその年に!)亡くなっています。 秦と同じく、エイ姓だといいますから、先祖の履歴からしても、なかなかの名家といえましょう。 一方、谷利は… ・合肥にて、孫権の危機を救う(→215年) この時点で、既に仕えてから何年かは経っています。この直後、都亭候に任ぜられています。 なお、「亭」とは、「県」と同程度か、さらに下の行政区画。今でいう、村落程度。 【蛇足:宮城谷昌光氏の『鳳凰の冠』に、春秋時代の晋の賢者・叔向の家は、一時零落して、わずか三軒の家しか支配していなかった、との記述があります。】 また、「侯」といっても、「列侯」(いわゆる諸侯)の下に、「関内侯(かんだいこう:爵位だけで領地はなく、都に居住していた)という位があったとの事なので、「都亭侯」といっても、大した位ではないのかも…。 ・船を引き返させ、孫権の軽挙妄動を諌める(→226年) これ以降、孫権は彼の事を呼び捨てにせず、「谷」と呼ぶ様に。きっと、年齢的にもそれなりの貫禄がついていたのでしょう。 ぐっこさんもご存知のとおり、谷利の記述はこれだけです。と、なると…
13: 2002/11/01(金) 22:14 左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 22時13分 谷利と谷朗との関係ですが、私が思いますには、(全くの推測ですが)おじ(伯父なのか叔父なのかは不明ですが、伯父っぽく思います)と甥の関係だったのではないか、と。 理由は、まず第一に、谷利が亡くなった時に郎中というのは考えにくいからです。「郎中」という官は、宮中に宿直し、警護にあたる(実際には、雑用係の様な存在だったらしい)存在です。ですが、孫権が「宮廷」を持ったのは、王位に就いた221年(この時は魏による任命。翌222年に独立)以降の事。谷利が仕えてからはだいぶ経っています。いくら何でも、その時に郎中では、昇進が遅すぎます。 第二に、NOBさんもおっしゃっていますが、谷朗の父の死後(母は既に亡くなっていました)、だれが彼等(弟が一人いたそうです)を援助したか、です。 そう考えると、おじである谷利が、兄弟の死後、その遺児である谷朗兄弟を援助したとするのが最も無難だと思うのです。 …ただ、彼の没年は、272年。ひょっとしたら、『晋書』の方が詳しいのかも…。 【蛇足。ふっと思ったのですが、ひょっとしたら、谷利は宦者だったかも知れません。孫氏が桂陽とどう関わったかにもよるのですが、明の鄭和の様な事も考えられないではありません。「親近監」というのも、ちょっとそれっぽい感じがします。】
14: 2002/11/01(金) 22:14 左平(仮名) 2002年01月07日月曜日 22時18分 それにしても……↑の様に、えらく知ったかぶりして書きましたが、根拠は全くないんですよね、これが。 そもそも、谷利と谷朗の間に血縁関係があるかどうかもさっぱり(私の方では)分からないわけですし。
15: 2002/11/01(金) 22:15 ぐっこ 2002年01月07日月曜日 23時10分 左平(仮名)様、さっそくの調査ありがとうございます! いま私も遅ればせながら逸聞三國志を拝見!「逍遥雑記」の12月15日からですね〜! NOBさまは、なんと「谷朗碑記」という「書」の史料から谷朗を発見されてます!凄いなあ…。 谷朗、字は義先。 桂陽郡耒陽県の人で、その曾祖父は預章の太守、祖父は桂陽(?)の太守。父は谷朗が11歳のとき(230年くらいに)郎中のまま亡くなってる、と。 谷朗は3歳で母を、11歳で父を失い、以後幼い弟と二人で暮らしたとか。もちろん地方豪族の谷氏ですので、後見人がいたのでしょうが…。若くして郡に出仕し、中央、地方、武官職などを歴任。有能で清廉な人物として称えられたが、九真太守の在官中、若くして病死。 この谷朗碑は、彼を悼んだ人々が立てたものだそうです……。 …以上、NOBさまのサイトから勝手に引用! あはは、はやく謝りに行って来よう(;^_^A で、このなかで触れられてるように、この桂陽谷氏は、秦王室から分かれたほどの名門であり、その地方では相当有名な家だったはず。 これはあくまで妄想ですが、谷利がこの桂陽谷氏の一員であったとすると、とてもではないけど誉められた立場ではなかったでしょう。 孫家のような出来星の武門に仕え、しかも下僕のように「利!」と名前で追い使われてるなんて…。 左平(仮名)様の推察どおり、わたしも谷利を半分くらいの可能性で宦官と思ってます(だから旧味好感列伝の谷利イラストはそれっぽい顔…)。あくまで孫権のプライベートな臣下に徹した姿勢も、なんとなくそれっぽいし…。(昔このこと言ったら、さる女性に「ぐっこさんはヲトメのツボを突くのが上手いと」言われました(*^^*)…)
16: 2002/11/01(金) 22:15 左平(仮名) 2002年01月08日火曜日 21時20分 先に、私が谷利の境遇をいうのに、「明の鄭和」の例を出しましたので、実際のところはどうなのかなぁと思い、「孫破慮討逆将軍伝」ほかをざっと見てみました(桂陽の帰属の確認:漢文全くダメな私ですから、すべて筑摩の和訳本によります)。 どうやら、孫策の生前は、この辺りは劉表の(緩やかな)支配下にあったものと思われます(その後、官渡の戦いの頃に、張羨という人物が劉表から自立。その後、劉表の支配確立→趙範→…)。 と、なると、鄭和の様に、被征服民が宦官にされ、王侯の奴隷にされたというのとは、事情が異なってきます。
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