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魏延のイメージ
2: 2002/10/27(日) 01:01 japan[関東] > (2001/05/09(Wed) 21:52:06) 諸葛亮亡き後、戦績は突出していたが蜀内で孤立していた魏延は、 その軍事力を警戒されて粛清された。『正史』魏延伝を読むと、そういう印象を受けます。 多分彼には独立するとか、ましてや魏に寝返る意思なんて全く無かったでしょうに… どことなくトウ艾の最期と重なるものが。(哀) ただ、やっぱり名前に問題ありですよね…何といっても「魏を延ばす」ですから。
3: 2002/10/27(日) 01:01 ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/05/10(Thu) 01:46:58) 魏文長! なるほど、魏を延ばす…。当時も忌み嫌われていた名前だったかも。 私はショッカーのひとりとしてこの漢を心底愛し、 一編の小説を書こうと試みたこともあります〜!(受験で挫折) 魏延は、たぶんイメージでは関羽的な、いわば諸葛亮体制のなかの 「腫れ物」として扱われていたのでは、と勝手に想像してます(^_^;) 劉備存命中の状況のなかでも、漢中を与えられると言うことは 例えば荊州をまるごと預けられるに等しい重責だったはずで、 魏延は関羽と同等かそれ以上の注目を浴びていた、と思います。 その栄光とプライドを引きずったまま諸葛亮体制に組み込まれてしまった 魏延は、戦の素人(魏延にはそう見える)の安全運転に同乗を強いられ、 相当にイライラしていたのでしょう。 だからたまに運転にケチを付けてみせたり(^_^;) 孔明もベテランを隣に乗せて、随分やりづらかっただろうと思います。
4: 2002/10/27(日) 01:01 香香[東海] > (2001/05/10(Thu) 21:49:58) ゲームや陳舜臣三國志では結構好きだったのですが、「天の華・地の風」で評価が一気に下がりました・・・・。というのは半分上段です。 魏延は、本来ならば魏の張[合β]に匹敵する存在だと思います。諸葛亮とはきがあわなかったのでしょうか?
5: 2002/10/27(日) 01:01 香香[東海] > (2001/05/10(Thu) 21:52:51) 孫権と張昭の関係も、諸葛亮と魏延の関係になんだか似てますね。
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