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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
167:左平(仮名) 2005/10/09(日) 00:03 うわ〜!せっかくの書き込みが消えてしまった〜!!…書き直し。 今回のタイトルは「高山」。今回描かれた具体的な事件のことという より、建安二〜三年の情勢を概観したタイトルの様です。 まずは、袁術僭号をうけての江南の情勢。 孫策は、袁術と絶縁し、攻める準備を進めます。しかし、こうしてみる と袁術の認識の甘さが分かりますね。この頃、孫策の勢力は既にかなり のものになってます。かつては身近におきその器量は把握していたはず。 その彼を敵に回すことがどれだけの損失か。ちょっと考えれば分かろう ものを。 もとの揚州刺史・陳瑀が孫策の隙を衝くべく厳白虎らとともに攻めようと しますが、あっさりと返り討ちに。その勢力はさらに広がりました。 孫策の苛烈さをみた曹操は、ひとまず融和策をとることとします。今しばらく は戦うべき相手ではないというわけです。 そんな中、袁術はまたもやらかしました。陳国に食糧があると聞くと高圧的な 態度でそれを求め、断られると王の劉寵と相の駱俊(駱統の父)とを暗殺した のです。 劉寵はやや野心家肌ではありましたが、武芸に秀で、国内の治安維持に成功。 駱俊はすぐれた行政手腕を持ち、国内をしっかりと統治。乱世にあって陳国 の平穏を守っていました。二人ともひとかどの人材です。 この頃、曹操はというと許褚や趙儼といった偉材を得ていたというのに袁術 は人材を失い敵を増やす。 あげくに、曹操の攻撃を受けると四将軍を見殺しにして逃走。袁術という人 は、後漢という時代の醜い点を凝集した感があります。 ただ、そんな存在は袁術ばかりではありません。その姻戚である楊彪もまた、 曹操からみると醜類の一人です。今回、直接の理由はよく分かりませんでした が、投獄されたのです。 宦官の孫の曹操に軽侮の目を向けるくせに董卓の力に屈した楊彪。曹操から すると、そんな彼に良い感情を持てるはずもなく。 これがあの楊震の曾孫か。こいつは四知という言葉を理解しているのか。血は 受け継がれても志は受け継がれるとは限らない。 彼らの振る舞いは、いわゆる名士の限界を示しているわけでもあるんですよね。 後半は、群雄達の最期が続きます。楊奉と韓暹は呂布に見切りをつけ劉備を利用 しようとしますが、楊奉は劉備に殺され、その死を知って呆然自失した韓暹は白 波に帰ろうとしますが、賊として殺されます。 勤皇の人ではありましたが、単純でもあった二人は、一見茫洋と見えながらも、 実は底知れない複雑な人格を持った劉備には敵わなかったということみたいです。 李カク【イ+鶴−鳥】、郭レ、李楽、胡才。彼らもまたこの頃に姿を消しました。 ここらの情勢を、宮城谷氏は「攢峰(さんぽう)を均す」と表現しておられます。 あまたの群雄達が、曹操、両袁氏、孫策などいくつかの有力勢力に収斂されつつ あります。 追記:「攢峰」という言葉を字書で引くと、唐初の詩人・駱賓王の名が。駱統と 同じく、今の浙江省の人といいますから、何らかのつながりがあるのかも。
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