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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
229:左平(仮名) 2009/03/22(日) 00:57:07 ID:+yelLx660 三国志(2009年03月) 今回のタイトルは「使者」。主に蜀漢と呉の修交の経緯が描かれます。 劉備が崩じ、嫡子の劉禅が跡を継ぎました。しかし、当年十七の、かつ、実績のない幼弱の新帝を戴く弱小国、となると、 その前途には厳しいものがあります。 さらに、丞相として全権を握ることとなった諸葛亮もまた、(その実績の割には)さほど知られておらず、威に欠けるの では、と見られています(魏の重臣達から臣従勧告の書状が送られたのもこの頃。劉備の死に動揺している今なら、あわ よくば…というつもりだったのでしょう)。 並の人物であれば浮足立つところでしょうが、諸葛亮はいっこうに動じません。魏からの書状を黙殺することで、蜀漢の 正統性(蜀漢こそ漢の正統を継ぐ王朝である【厳密には漢≠後漢ですが】)を主張したのです。 それが劉備の本意であったかは、今となっては分かりませんが…少なくとも、この時点で蜀漢が生き残るには、これしか なかったと思われます。ニュアンスに多少の相違はあるでしょうが、『攻撃こそ最大の防御』ってなところですね(とは いえ、呉との戦いによる国力の消耗は大きく、しばしの雌伏を余儀なくされるのですが)。 ただ、このままでは、蜀漢は魏・呉の双方を敵に回すことになりかねません。ただでさえ国力にハンデがあるのに二正面 作戦をとるのは愚の骨頂。 となると、呉との関係の修復が必要なわけです。その大役を仰せつかったのは…ケ芝でした。 荊州出身のケ芝は、乱世を避けて益州へ避難したわけですが、ここで「位は大将軍に至る」ってな占いを受けます。自分は 単に乱世を避けているだけなのに…ということで、この占いは特に信じなかったようですが、これが概ね当たったわけです から、面白いものですね。 呉に至ったケ芝は、呉王となった孫権に同盟による両国の利害を説き、その信頼を勝ち取ることに成功します。演義では、 宮中に大釜を引っ張り出して(釜茹でにしかねない…と脅すことで)ケ芝の度胸を試す…ってな場面もありましたが、その ような大仰な演出は不要でした。 何より、孫権自身、自国に迫る魏の脅威を痛切に感じているだけに、三国鼎立による力の均衡の重要性を深く認識していた のです。 しかし、外交においてこれほどのバランス感覚を有する孫権が、戦場では凡庸な将と化すのも不思議なものです(『子産』 での子罕が似たような感じですね)。 長くなるので続きます。
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