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239:左平(仮名) 2009/08/23(日) 01:37:07 ID:bq1phsVL0 三国志(2009年08月) またしても迂闊なことを。馬謖の名をを書き間違えてしまうとは。気を取り直して。 今回のタイトルは「街亭」。まあ、第一次北伐とくると、この名前は当然出てくるところですね。 まずは、前回の続きから。兵の数の差は大きく、蜀漢軍は撤退を余儀なくされ、ついに趙雲自らが後拒を担います。 その生涯を決定づけた存在である劉備を、戦場に斃れた関羽を思い、一人佇む趙雲。戦場に、一瞬ですが、静寂が 訪れます。 既に老齢に達してはいますが、長坂の英雄は未だ健在。ただ一騎とはいえ、敵に凄まじい威圧を与えます。 そして、魏兵の目に、ひときわ趙雲の姿が大きく映ったその時― あっという間に数十の敵兵を屠り、部隊長を叩き落としました。部隊長自身は無事でしたから、趙雲に気圧された、 としか考えられません。地味な撤退戦とはいえ、個の武人の強さがかくも鮮やかに描かれたのは合肥の張遼以来か。 「趙雲には近づくな」。曹真の命をうけて追撃する第二陣の部隊長に、先の部隊長はこう言います。既に日も落ち、 ここは敵地。追撃するには危険なところです。たとえ怯、と罵られても、兵士の命には代えられません。そして、 この危惧は現実のものとなります。 翌朝、再度追撃を開始した魏軍が見たもの。それは、蜀漢―そのうちのかなりの部分は趙雲一人―に屠られた魏兵 で作られた牆でした。その凄惨さをみた魏軍の士気は落ち、曹真は兵を引きます。 準皇族である彼には、派手な武勲を求める必要性はありません。敵将の趙雲・ケ芝の首級は挙げられずとも、一定 の勝利を収めた以上、深追いする必要はないのです。それに何より、兵を労わる曹真には、牆にされた兵士の骸を 放置することはできませんでした。 「蜀の地では寝心地が悪かろう。みな連れ帰って葬ってやりたい」。 将にこういうことを言ってもらえる分、この魏兵にはまだ救いがある、というところでしょうか。 みごとに兵を引いた趙雲は諸葛亮に激賞されますが、報償を出そうとするのに対しては、きっぱりと拒否します。 最も成功した法家、と言われることのある諸葛亮でさえ甘いと思わせるほどに厳しい道を歩み続けてきた趙雲。 彼は、この翌年に逝去します。 長くなるので続きます。
240:左平(仮名) 2009/08/23(日) 01:39:56 ID:bq1phsVL0 続き。 同じ敗戦でも、趙雲のそれがそう思わせないほどにみごとなものであったのに対し、馬謖のそれは、甚だ無様な ものとなりました。 副将の王平がまっとうな行動をとっているだけに、「策士、策に溺れる」を地でいく馬謖の判断ミスが余計に 目立つのです。 相手は「半世紀の武人」張郃。敵将を侮り、のみならず、策の危険性を軽視し、副官の指摘にも耳を貸さない。 兵書に通じているはずの彼が、最も基本的なところを見落としていたのです。 「彼を知らず己を知らざれば、戦うたび即ち殆し」。彼の敗戦は、必然でした。 王平に助けられ、辛うじて撤退した馬謖。しかし、これは単なる敗戦ではありません。その咎は、死をもって 償う他ありませんでした。 馬謖の将来を最も期待していたのは諸葛亮です。ゆくゆくは丞相にも。そんな未来図を描いていたでしょう。 しかし、法を枉げることはできません。辛い決断を下すことになります。 ここで馬謖を斬るべきだったのかどうかは、議論の余地があるところです。しかし、馬謖の失敗は、彼に嘱目 していた諸葛亮にも向けられます。「諸葛亮は万能ではない」。先にも言われてはいましたが、かなり辛口な 評価がされています。 為政者に問われるのは、ただただ結果のみ。事情を知る者には酷に思えるところですが、そういった、不条理 にも思えることをも引き受けなければならないのが為政者の宿命。 全く得るところなく終わった、第一次北伐。しかし、それでも、何もなかったわけではありません。 諸葛亮は、ひとりの偉才を拾いました。姜維です。
241:左平(仮名) 2009/09/26(土) 03:04:24 ID:sq1CW+Zq0 三国志(2009年09月) 今回のタイトルは「曹休」。姜維についての記述はないのですが、第一次北伐の余談、とでもいうべき話から 始まります。 かつて張既に託された、游殷の遺児・游楚。立派に成長し、太守となった彼のもとに、蜀漢軍の侵攻の知らせ が届きます。 天水・南安の太守が早々と逃亡する中、ここが死に場所、とばかりに肚を括ると、きっちりと迎撃態勢を整え、 蜀漢軍に一撃を加えます。 游楚は学問を好まず、遊び好きだったそうですが、郡の官民の心を得たことといい、敵軍の状況を冷静に把握 したことといい、なかなか優秀な人物ですね。 戦力を分散していた蜀漢軍は、長居は無用とばかりに撤退。みごと、援軍の到来まで持ちこたえました。 近隣の太守が醜態を晒す中での、この活躍。宮中に上がった時の天然ぶり(?)もあって曹叡に気に入られた 彼の人生は、比較的穏やかなものだったようです。 さて、タイトルの曹休ですが…。この時、彼は、南の呉に備える立場にありました。 蜀漢と呉は同盟関係となっています。と、いうことは、両者が連携して魏と戦うということが予想されるわけ です。そして、蜀漢が攻撃を仕掛けてきたということは…。曹休は、呉との戦いの準備に取りかかります。 孫権も、蜀漢が動いたことを知ると、魏との戦いの準備に取りかかります。しかし、過去数年の戦いの結果は、 というと、一進一退。それも、軍事のまずかった曹丕の時で、です。 天性ともいうべき戦略眼を持った曹叡が相手となると、これでは心もとない。孫権は、何らかの策略を用いる 必要に迫られます。 長くなるので続きます。
242:左平(仮名) 2009/09/26(土) 03:05:46 ID:sq1CW+Zq0 続き。 ここで白羽の矢が立ったのは、前線にいない鄱陽太守・周魴です(前線の太守が策をめぐらしても警戒されて いるため難しい、との判断)。山越等の賊との戦いの経験もあり、なかなか優秀な人物ではありますが、これ はいかに言っても困難な使命です。 何度も策を練っては却下され、ついには問責の使者が来て、剃髪して詫びるということも(演義では、曹休を 欺くための策の一環でしたが、ここでは、本当に策が思いつかないが故の剃髪)。上司の無茶な命令にこたえ られずに謝罪を強いられる部下…。何か、身につまされます。 ようやく策ができ、孫権の了承が得られました。ここからが、大戦の始まりです。 周魴の内通という機密情報。曹休は、この情報を己の内にしまい込みます。曹叡に報告すると…と思ったので しょうか。 数に劣る呉軍としては、賈逵の援軍が来る前に曹休の軍を殲滅したいところ。ここは、陸遜や朱桓といった、 呉の最精鋭が当たります。 周魴の内通が偽りであったと悟った曹休は激怒しますが、十万という大軍を率いていることもあり、総攻撃を 掛けます。 軍勢を分断されて苦戦を強いられますが、戦意は高く、劣勢とはいえ軍としての形は崩さないあたり、慎重さ に欠けるなどと言われはしても、ひとかどの将帥であることは確かです。 とはいえ、敵の術中にはまり敗れたのには違いありません。曹休は、撤退を余儀なくされます。 援軍に向かう途中でこのことを知った賈逵。さて、どうするか。
243:左平(仮名) 2009/10/25(日) 22:42:15 ID:5TLCoJWz0 三国志(2009年10月) 今回のタイトルは「陳倉」。曹操等には及ばぬまでも、諸葛亮の軍事手腕に一定の成長が見られます。 まずは前回の続きから。曹休の敗退を知った賈逵は、彼が向かうであろう夾石に軍を進めることにします。そこ には、撤退する曹休を待ち構える呉軍がいましたが、賈逵はこれを難なく蹴散らし、無事、曹休と合流すること ができました。 全体的には魏の敗戦とはいえ、主だった将帥の戦死もなく済んだのは、ひとえに賈逵の功です。しかし… なぜか、賈逵は曹休には嫌われていました。ともに戦場においては勇将でしたが、二人の勇気の質が違っていた ため、とのことですが…自分の窮地を救ってくれた賈逵に当たり散らすあたり、第三者からみると、どちらの勇 気が優っているか、は言うまでもないような…。 その後、ともに経過報告を奏上しますが、曹休のそれには、敗戦の責を賈逵に押しつけようとするところがあり ました。 どちらが正しいかは分かっている曹叡でしたが、皇帝である彼も、帝室の一員たる曹休には強く出られないため、 この件はうやむやのうちに終わります。 曹休はかくも大事にされていたわけですが、彼のプライドは深く傷つき、憤りの余り、間もなく没します。 初めての敗北が、結果として彼を死に追いやったわけです。敗北から学べなかった武将の悲劇、でしょうか。 …曹操が薨じてから十年足らず。しかし、彼とともに戦ってきた曹氏の多くが既に没し、世代交代しています (曹洪はまだ生きているはずですが、曹丕の時代に一度失脚したためか触れられていません)。 そのため、曹真が一族をとりまとめる立場に立ちます。…ん?この流れは…? 長くなるので続きます。
244:左平(仮名) 2009/10/25(日) 22:45:04 ID:5TLCoJWz0 続き。 一方、勝利した呉ですが、こたびの戦の功労者である陸遜・周魴は篤く賞されます。それはよいのですが…ここに 呉の限界があります(後世の、人気がない原因でもあるような)。 詐術を弄して勝つということは、「敵には何をしてもよい」と考えているわけです。それは、一見正しいようですが、 そこには、人を引き付けるものがありません。人々を引き付けないことには最後の勝利は得られません。 「信なくば立たず」と言います。呉は、君主たる孫権からして、その信が欠けている。それがもたらすものは…。 …ともあれ、赤壁の鮮烈な勝利が、周瑜のみならず、呉という国そのものをも束縛してしまった、という皮肉な見 方もできるわけです。 さて、(遠い東方のこととはいえ)魏が敗れたということは、蜀漢にとっては好機であるわけですから、これ幸い とばかりに、諸葛亮は兵を進めます。 しかし、彼の進攻ルートは、既に曹真らによって予測されており、戦場は、郝昭が守る陳倉になります。この時点 で蜀漢の苦戦は決まっていました。 小さい城とはいえ、先の游楚の勇戦を考えると、条件は格段に良い(籠城の準備も整っており、何より、早い段階 での援軍が期待できる)わけですから、郝昭達の士気は高く、諸葛亮が大軍を持って攻めかかったにもかかわらず 戦果を挙げられぬままに撤退を余儀なくされます(ここでの王双の追撃が魏には蛇足になります。というのは、王 双を討ち取ることで、蜀漢は劣勢を糊塗できたわけですから)。 まだ続きます。
245:左平(仮名) 2009/10/25(日) 22:47:11 ID:5TLCoJWz0 続き。 文章量からすると、やや少なく感じるくらいの陳倉の戦いですが、その中身はなかなか濃いものがあります。攻城 兵器(雲梯、衝車等)の投入、二重城壁、地下道での攻防…。 ただ、郝昭の勇戦は確かですが、ここでは、戦場における諸葛亮の鈍さが強調されているように見えます。 一度ならず二度までも戦果なく撤退した諸葛亮。しかし、「応変の才に欠ける」と評されたとはいえ、彼は愚物では ありません。ついに、あることに思い至ったのです。そう、范雎の遠交近攻の応用―領土の面的確保―です。 魏の予想を裏切る速さで再び兵を起こすと、武将・陳式をして陰平・武都を攻めさせ、これの確保(及び保持)に 成功したのです。 …しかし、「水軍を預かったことがある」「山岳戦もまずくない」くらいにしか書かれていませんが、これだけの戦果 を挙げた陳式、なかなかの将ですね。蒼天で、徐晃相手に堂々としていたあの雄姿も伊達ではないといったところ でしょうか。 しかし、本作での諸葛亮はなかなか扱いづらい存在ですね。私心ない忠臣であり、かつ卓越した行政手腕の持ち主 である一方で、将帥としては意外性に欠け鈍重、皇帝でさえ止められない独裁者でもあるわけですから。 さて、ラスト、ついに孫権が皇帝を称したわけですが…魏・蜀漢両国の反応やいかに。
246:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:52:23 ID:A/4303W/0 三国志(2009年11月) 今回のタイトルは「三帝」。名実ともに、三国の時代となります。 まずは、孫権の皇帝即位を知った蜀漢の反応及び対応が語られます。漢の正統を自任する蜀漢としては、孫権の 皇帝即位は到底是認できないものではあるのですが…ここは、丞相・諸葛亮の現実的判断に従うこととなります。 まずは、中原をおさえている魏との戦いを優先する、ということです。帝位を僭称した孫権の非を糾弾するの は、その後で、と。 しかし、もし、蜀漢が孫権の皇帝即位を非難し同盟を破棄したなら、孫権はすばやく帝位を降りて魏に詫びを 入れ、共同して蜀漢を攻めることもありうる、と(諸葛亮が憂慮した、と)いうのは、これまでの孫権の言動 をみるとありそうなのが何とも。孫権、信用されてませんね。 祝賀の使者として衛尉の陳震が派遣されます。このことは蜀漢の反応を気にしていた孫権を大いに喜ばせました。 諸葛亮の外交には裏がない。それは、一見すると非常に稚拙なようではありますが、実は、最も強固なものでも あります(ある意味で、敵にも味方にも信用されているわけですからね。信用は大事です)。 名の通り、権謀術数の限りを尽くしてしたたかに生き抜いてきた孫権には、この逆説が分かります。彼が諸葛亮 を絶賛したのも、こういうところを認めたからですね。 それにしても、諸葛亮の軍事的手腕については総じて辛口に書かれていますが、内政及び外交手腕については 絶賛といっていい書かれ方です。 「諸葛亮は信と誠の人である。それがすべてといっていい」。 政治には巧みだが軍事には疎い。『子産』の子罕などがそうですが、完全な人はなかなかいないものです。 長くなるので続きます。
247:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:53:41 ID:A/4303W/0 続き。 この祝賀の席で、(かつて対立した)周瑜を賞賛しようとした張昭にちくりと皮肉を言ったり、それに衝撃を 受けた張昭が引退を願い出ると引き留めたりと、孫権、家臣に対しても容易に腹の内を見せません。 諸葛亮と孫権。ともに優秀な為政者には違いないのですが、この差は何なのか。 孫権の皇帝即位の前年に、呂範が他界します。孫権は、彼を雲台二十八将の一人・呉漢(序列第二位)に例 えます。この際、既に亡くなっている魯粛をケ禹(同一位)に例えていることから、死してなお、魯粛への 評価が高いことが分かります。天下平定の計略を示したのは彼一人。その死をもって、孫権の、天下平定の 計略は潰えたということでしょうか。それ以降の、孫権の魏への対応を考えると、そんなふうに思えます。 さて、魏は無反応だったわけですが…宮城谷氏曰く、この時代は四国時代と言えなくもない、ということで、第 四の勢力―遼東の公孫氏―のことが語られます。 (実は、単行本第八巻の付録にもこのあたりのことが書かれています) 西暦229年時点での公孫氏の主は、公孫淵(字は文懿、というのが知られるようになったのは、ここ数年の皆 様の丹念な文献チェックの賜物ですね)。 初代の公孫度の孫で、四代目にあたります(公孫度―康―恭(康の弟)―淵(康の子))。 魏に服属している形なので名目上は侯に過ぎませんが、領内では王、いえ、内心では帝の如く振る舞っています。 そんな彼に、孫権は使者は派遣したわけですが…帝気取りの公孫淵に向かって「なんじを燕王とする」と言った ところで何のありがたみもないわけで…。さすがの孫権も、遠い遼東のことまでは、十分に把握していなかった ということでしょうか。あるいは、衰えの兆候…? (衰えうんぬんは、あくまで個人的な思いであって、作中でそのような書かれ方をしているわけではありません ので、念のため) まだ続きます。
248:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:55:30 ID:A/4303W/0 続き。 そうこうしているうちに、西暦230年。この年、魏は本格的な軍事行動を起こそうとします。蜀漢が対魏戦の 準備を着々と進めていると知った曹真が、機先を制してこれを討つことを考えたのです。 彼我の国力差を考えると、孫資の言うとおり、魏から無理に戦いを仕掛けずともよいのですが、今や魏軍の重鎮 たる曹真の意見をむげに取り下げることもできません(それに、敵に謀られて〜というわけでもありませんし、 蜀漢の攻勢を挫くという意義もある以上、無意味な戦いでもありませんからね)。 結局、秋になって、出撃が決定します。曹真と司馬懿がともに蜀漢に攻め込もうというのですから、大戦になる ことは必定でした…が、折からの長雨のため、軍は進めず。 呉に備えるため、洛陽を発ち許昌に滞在する曹叡に、華歆・楊阜達が諫言を呈します。 最後は、この楊阜のこれまでの生き様が描かれます。 時を遡ること、約二十年。手痛い敗北を喫したものの、曹操が去った後、勢力を盛り返して涼州を荒らす馬超を 倒すべく、姜叙の母達とともに蜂起する、というところまでです。 文官・武官というくくりでは文官なのでしょうが、なかなかどうして、苛烈な半生です。
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