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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
247:左平(仮名) 2009/11/28(土) 15:53:41 ID:A/4303W/0 続き。 この祝賀の席で、(かつて対立した)周瑜を賞賛しようとした張昭にちくりと皮肉を言ったり、それに衝撃を 受けた張昭が引退を願い出ると引き留めたりと、孫権、家臣に対しても容易に腹の内を見せません。 諸葛亮と孫権。ともに優秀な為政者には違いないのですが、この差は何なのか。 孫権の皇帝即位の前年に、呂範が他界します。孫権は、彼を雲台二十八将の一人・呉漢(序列第二位)に例 えます。この際、既に亡くなっている魯粛をケ禹(同一位)に例えていることから、死してなお、魯粛への 評価が高いことが分かります。天下平定の計略を示したのは彼一人。その死をもって、孫権の、天下平定の 計略は潰えたということでしょうか。それ以降の、孫権の魏への対応を考えると、そんなふうに思えます。 さて、魏は無反応だったわけですが…宮城谷氏曰く、この時代は四国時代と言えなくもない、ということで、第 四の勢力―遼東の公孫氏―のことが語られます。 (実は、単行本第八巻の付録にもこのあたりのことが書かれています) 西暦229年時点での公孫氏の主は、公孫淵(字は文懿、というのが知られるようになったのは、ここ数年の皆 様の丹念な文献チェックの賜物ですね)。 初代の公孫度の孫で、四代目にあたります(公孫度―康―恭(康の弟)―淵(康の子))。 魏に服属している形なので名目上は侯に過ぎませんが、領内では王、いえ、内心では帝の如く振る舞っています。 そんな彼に、孫権は使者は派遣したわけですが…帝気取りの公孫淵に向かって「なんじを燕王とする」と言った ところで何のありがたみもないわけで…。さすがの孫権も、遠い遼東のことまでは、十分に把握していなかった ということでしょうか。あるいは、衰えの兆候…? (衰えうんぬんは、あくまで個人的な思いであって、作中でそのような書かれ方をしているわけではありません ので、念のため) まだ続きます。
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