下
★『宮城谷三国志』総合スレッド★
253:左平(仮名) 2010/01/24(日) 01:34:13 ID:94F5vzQz0 続き。 しかし、戦場は生き物とでも言うべきか。司馬懿の目算はあっさりと狂います。こともあろうに、上邽に派遣した武 将達が野戦に及び敗れたのです。こうなると、蜀漢軍への抑えが利かなくなり、後手に回ってしまいます。 蜀漢軍が上邽に留まっている(周囲の麦を刈り、挑発及び兵糧確保を行った)との知らせを受けると、相手が待ち構 えていることを承知で、向かわざるを得ません。 司馬懿は昼夜兼行で向かい、諸葛亮の予想よりも早く戦地に着きました。かつての諸葛亮であれば、これで動揺した でしょうが…。彼は、将帥として、かなりの成長を見せていました。 かつては(決断の遅さから)袁紹に例えられていたのが、今は(奇策を好まないという点で)関羽に似ている、と 評されています。この数年での急成長がうかがえます。 戦いは、蜀漢軍優勢で進みます。ただ、慎重になる余り本陣を後方に置きすぎていたため、魏軍の動きの把握が遅れ、 決定的勝利を逸しました(この際、司馬懿は、劣勢をみるとあえて本陣を前に出して崩れを防いでいます)。 司馬懿は、渭水を渡ると壊滅すると分かっているため、高地を利用した陣を築き、蜀漢軍の猛攻をしのぎます。 ただ、こうしているのは、勝算あってのことではありません。司馬懿は窮地に陥ります。 やがて、蜀漢軍が退きます。これは誘い出すための陽動。それが分かっているため、追撃は極めて緩慢なものになり ますが、ここでまた、張郃が進言します。 しかし司馬懿はまたしてもこれを却下。前回はそれなりに却下する理由がありましたが、今回はさしたる理由もない ように思われます。張郃は曹操と同じく実戦派。司馬懿は理論派。そのあたりの違いを嫌ったのでしょうか。 まだ続きます。
254:左平(仮名) 2010/01/24(日) 01:36:41 ID:94F5vzQz0 続き。 追撃している、という体裁を整えるためだけの進軍。雍と郿に軍を派遣しておれば、このような事にはならなかった のでは…。それがまた、司馬懿には癪に障ります。 このような状況に諸将は不満を抱きます。勝算のない司馬懿は、その戦意に賭け、攻勢に出ます。…らしくない戦い 方です。 魏軍が攻勢に出た。これを見つめる将、魏延。 彼は、この戦いに先立ち、諸葛亮とは別行動をとって潼関を目指したいと申し出ますが、却下されました。自尊心の 強い魏延に自由行動を許すと、半独立勢力になりかねない、と危惧したためです(ここで董卓の名が出てくるあたり、 諸葛亮の警戒ぶりがうかがえます)。 魏延には言い分があります。天水郡を取ったところで魏は揺るぎもしない。しかし、長安を取ればどうか。中原に蜀 漢の軍が至れば、漢の御代を懐かしむ人々の心を動かすことができるのではないか、と。 かつて劉備は、どれだけ曹操に敗れても、決して屈しなかったではないか。いま、その志をたれが継いでいるという のか。皇帝(劉禅)は成都から動かず、諸葛亮は領土拡張に動くのみ。 諸葛亮を「怯(臆病)」と罵りつつも、その心中には哀しみがあります。「われを知ってくれたのは、ただ昭烈皇帝 (劉備)のみか」。 ともあれ、彼にとっては、眼前の魏軍は壊滅させるべき敵。曹仁、張遼、そして関羽なき今、魏延は恐らく中華最強 の将。その兵の強さも半端なものではなく、魏軍はたちまちにして圧倒されます。 劣勢を見た司馬懿はあっさりと退却し、陣にこもります。巻き添えを食って危い目にあった張郃は激怒しますが、司 馬懿はこれを無視。諸葛亮と魏延の対立は路線対立とでも言うべきもの(双方に理がある)ですが、司馬懿と張郃の それは、どこかすっきりしないものがあります。ここで、長雨。これが、どう影響するか。
255:左平(仮名) 2010/02/24(水) 00:09:07 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年02月) 今回のタイトルは「悪風」。この、意味するところは果たして…。 前回のラストで触れられた長雨が、間接的にですが、今回の諸葛亮と司馬懿の対決に決着をつけることになりました。 例年にない長雨。それとあわせてもたらされた、李厳(改名して李平)からの知らせは、諸葛亮に撤退の決断をさせる には十分すぎました。 長雨で補給路が断たれてしまっては、いかに戦況が有利とはいえ、戦えません。諸将に異存が出なかったのも、無理も ないところでしょう。 もちろん、将帥として成長した諸葛亮のこと、後拒にも抜かりはありません。 蜀漢軍、撤退開始。 この知らせを受けた司馬懿は直ちに追撃を命じますが、ひとり張郃は異を唱えます。魏にとっては、今回の戦いは防衛 戦。撤退する軍勢をことさら追撃する必要はないのです。しかし、司馬懿はこれを却下。不満を抱きつつも、方針が追 撃と決まった以上、それに従うのが武人の務め。張郃は、猛烈に追撃を開始します。 老練な張郃ですが、罠や伏兵を警戒しつつも、猪突猛進。時に忘我の境地に立ってこそ、無類の強さを発揮することが ある。この時の張郃がまさにそれで、結果として、蜀漢軍に少なからぬ損害を与えます。 しかし、国境付近の木門まで追撃した、その時… …蜀漢軍の伏兵の放った矢が、張郃に命中。即死ではなかったようですが、この傷がもとで、張郃は落命します。 将兵は名将の死を大いに嘆き悲しみましたが、司馬懿は、どこか心が軽くなったことを感じます。曹操の戦い方を継承 する唯一の存在であった張郃がいなくなったことで、自分の戦い方への批判者がいなくなった。そういうことでしょう か。 ともあれ、蜀漢軍が撤退したことで、司馬懿は、勝利したという形を作ることができました。曹操以来の名将・張郃と 引き換えにするにはどうかという気がしますが。 続きます。
256:左平(仮名) 2010/02/24(水) 00:10:57 ID:???0 [sage ] 続き。 凱旋した司馬懿及び諸将には褒詞が授けられ、褒美や昇格といった栄誉が授けられました。このあたりの要領の良さが、 司馬懿が「政治的な人物」であるということでしょうか。 張郃についても、「壮候」と諡され、爵位は子に受け継がれましたし、何より、皇帝がその死を大いに嘆き、それ故に諌 められるくらいですから、それなりに栄誉は与えられてはいます。 しかし、(個人的には、ですが)どこかすっきりとしません。名将・張郃を使いこなせなかった司馬懿。曹操と比べると スケールダウンしている感は否めません。 …こうなると(「三国志」である以上、無理な話とは思いますが、為政者の堕落した最悪の事例として)王衍の末路まで 描いていただけないものか、と思ったりします。 一方、無事に撤退した諸葛亮ですが、長雨による補給路の遮断が予想ほどではなかったことに疑念を抱き、李平を詰問し ます。この際の李平の応答が諸葛亮を激怒させ、彼を失脚させるに至らせました。 普通、このあたりの経緯は、李平の怠慢(もしくはサボタージュ)とされていますが、真相はどうであったか。李平が諸 葛亮を敬仰していたことから、違う見方が必要では…という指摘がされています。 「無私の人」「法の人」である諸葛亮も人間。結果として、自身の過ちをなすりつけた形になることもある、と。 一方、呉に目を転じると…。孫権、欲求不満の様子。蜀漢と魏とが死闘を演じる中、漁夫の利を狙えそうなものですが、 目立った成果が挙げられません。 夷州(台湾とされています)・亶州(九州南部の島とされています)の探索も、原住民を連れ帰っただけに留まります。 そんな中、再び、遼東の公孫氏に目を付けるのですが…。 続きます。
257:左平(仮名) 2010/02/24(水) 00:12:40 ID:???0 [sage ] 続き。 夷州・亶州の探索もそうですが、水軍を擁するとはいっても、所詮は河川・湖沼といった波の穏やかなところにしか対応 できない代物です。外洋の過酷さには耐えられません。孫権がそのことを認識していなかったことが、このあたりの呉の 失態につながっているようです。 そのため、呉が遼東に使者を派遣したということは、(呉の船が魏領内の港に寄港することで)あっさりとばれてしまい ます。 さて、これをどうしたものか。皇帝の意向は殲滅ですが、魏にしても海上での戦いは未知の領域。と、なると…。 ここで田豫の名が浮上します。かつて劉備や公孫瓚に仕えたこともある歴戦の名将は、山東半島の突端、成山でひたすら 呉の船団を待ち続けます。 利を得るよりも害を除くことを重視する田豫は、諸将の不満の声を聞き流し、暴風雨にさらされ、成山で難破した呉の船 団をやすやすと捕獲・撃破しました。 正使を捕斬したわけですから、一定の成果を挙げたわけです。 しかし…田豫は、青州刺史・程喜の讒言を受けます。詰めが甘かったため船団が積んでいた財宝類の確保ができなかった、 というのです。 (この時点では程喜は清廉な人物とみられていたとはいえ)曹叡がこの讒言を聞き、田豫の功を軽く見たというのは、何 かいやな感じがします。 この「悪風」、単に呉の船団を襲った暴風雨を示すのではないような。そんな感じがあります。
258:左平(仮名) 2010/04/03(土) 11:15:08 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年03月) 今回のタイトルは「遼東」。以前に、「後漢のあとは、三国時代というより四国時代というほうが正しいかもしれない」。 と書かれていましたが、今回は、主に遼東の公孫氏について語られています。 さて、魏には多くの名臣がいたわけですが、今回最初に語られたのは、その一人、陳羣。前回見せ場のあった田豫と同様、 劉備と縁があった人でもあります。 謹厳実直な人となりで知られる彼は、優れたバランス感覚の持ち主であるとともに、帝王の言動の重さというものをよく 理解している人でもあり、まさに国家の重鎮というべき存在。 (なぜ史書に伝わっているのか、と言ってしまうと野暮ではあるのですが)彼の諫言は、密かに行われていたといいます。 なぜ密かに、という疑問があるわけですが…個人的には、「王に戯言無し」ということを意識していたのではないか、と 思います。 個人的な話かつ時事ネタで恐縮ですが、現内閣・与党の面々の言動のひどさを見るにつけ、この言葉がしばしば私の脳 裏をよぎります。彼らは、これまで一体何を学んだのでしょうか。作中では散々な書かれようだった袁紹・袁術でも、 この連中よりももっとましではなかったか、と。 帝王の言葉は極めて重く、また、誤りがあっては取り返しがきかないものです。誤りがあれば当然に正されるべきですが、 誤りがあったこと自体、帝王の尊厳を傷つけるもの。表立って諫言することは、帝王の誤りを明らかにしてしまいます。 それゆえ、諫言は密かに行うものである…。これは、臣下としての、彼の美学とでも言うべきものでしょう。 続きます。
259:左平(仮名) 2010/04/03(土) 11:16:10 ID:???0 [sage ] 続き。 陳羣は少なからぬ諫言を行いました。それはしばしば曹叡の心を打ち、受け入れられてきました。ただ、即位から数年が 経ち、その治世に自信がついてくると、ときに聞き入れられなかった事例も出てきます。 ここでは、二件(曹叡の愛娘の葬礼、宮殿造営)挙げられています。 宮殿造営については、秦の滅亡の一因とみる陳羣と国威発揚とみる曹叡との考え方のずれというものがあり、陳羣の真摯 な諫言に打たれ、規模縮小という折衷的な結論に至りました。一方、曹叡の愛娘の葬礼については、結局諫言を聞き入れ ませんでした。 続いて、もう一人、劉曄です。この人は、皇帝には有用でも国家にとってはどうか、と、一筋縄ではいかない人物として 描かれています。 状況によって正反対の意見を言う(例:群臣の前では蜀漢を討つべきではないと言い、曹叡の前では討つべきと言う)と なれば、確かにそのようにみえます。 彼はその故に、曹叡に翻弄され、ついには精神を病んで失意のうちに没するという哀しい最期を遂げるわけですが、では なぜ、時に正反対の意見を言ったのか、となると、そこには深謀遠慮がありました。 「事は密を以って成り語は泄を以って敗る」というわけです。帝王たる者が秘密を軽々しく外に漏らすべきではない、と。 分かる人には分かったのですが、どうも劉曄、社交的な人ではなかったようで、その真意が理解されなかったようです。 曹操の時代であれば、切れ者の軍師として働けたのでしょうが…。 このあたりに、曹叡という人物の思考のあり方がうかがえるようです。聡明な曹叡ではありますが、このような癖のある 人材を生かせなかったという点はややマイナスですね。 続きます。
260:左平(仮名) 2010/04/03(土) 11:16:55 ID:???0 [sage ] 続き。 とはいえ、曹叡は決して凡君・暗君の類ではありません。前述の、愛娘への過剰な哀惜も、国政の運営が大きな過失なく 行われているがゆえの余裕ともいえるわけです。 一方、魏人の目の届かない海上では…密かに、南に向かう船団の姿が。それは、呉に向かう、遼東の使節。彼らは、主・ 公孫淵が呉へ臣従する旨を伝えに来たのです。 これを聞いた孫権の喜びようは相当なもので、直ちに大規模な使節団の派遣を決めます(先の夷州・亶州探索の時と同様、 「兵一万」。しかも今回は閣僚級の執金吾まで付きます)。 しかし、群臣達は公孫淵の真意を疑い、こぞって諫言を呈します。公孫淵が信用に値するかも分からないのに…と思えば 当然のことでしょう。それに、先の探索には「人狩り」説もあるように、呉は人口不足気味。そんな中で貴重な兵を一万 も付けるのは…。 しかし、孫権はこれを強行します。何故か。それは、呉・蜀漢・遼東の三方から魏を攻め、疲弊を誘うくらいしか、近い うちに魏に勝つ方策がないではないか、という孫権独自の考えに基づくものでした。 十九歳で兄の跡を継いだ孫権も、既に五十を過ぎました。曹操・劉備はともに六十代で世を去ったことを思えば、残され た時間は少なく、しかも彼我の力の差は縮まるどころか開く一方。何か起死回生の一手がないか、と模索する中、突如と して訪れた好機、と捉えるのも無理からぬところでしょう。 しかし、「自分の発想は(周瑜・魯粛の如き)非凡な臣下にしか分からぬし、実行し得ない」と思っているのだとしたら、 それは奢り。非凡な臣下がいないと思うのであれば、そのままの形で(自分の発想を)実現させるのは不可能だという単 純な真理が見えていないのです。 続きます。
261:左平(仮名) 2010/04/03(土) 11:18:12 ID:???0 [sage ] 続き。 ともあれ、呉の使節団は出港しました。時は春。孫権は上機嫌で送り出しました。その末路がいかなるものになるかも 知らずに。 往路は、まずは無難に進み、無事、遼東に到着しました。しかし、どこか様子が変です。呉に臣従するという割には、 遼東側に謙譲の姿勢が見られないのです。 (呉に臣従する以上、呉の使者の下に立つべき、と言われた公孫淵が)「困ったな。われは人をみあげたことがない」。 と言うあたり、使者を派遣した意図が何なのかさえ分からなくなります。 これには、呉側も疑心を抱き、兵の数を恃んで…と思っていると…「これが、彼らのさいごの夜となった」のです。 …呉も、遼東も、互いに相手を利用することしか考えていなかったということでしょうか。 劉曄の最期のところで、「巧詐は拙誠に如かず」という言葉が出てきました。劉曄については、そう言うのはいささか 酷ではないか、と書かれていましたが、彼らはどうなのでしょうか。 以前の回で、孫権は、諸葛亮の誠実さを賞賛していますが、自身はそのようにはできません。難しいものです。
262:左平(仮名) 2010/04/25(日) 21:44:15 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年03月) 今回のタイトルは「張昭」。呉の重鎮・張昭の最後の見せ場(?)があります。 まずは、前回の続きから。正使・張弥の命をうけ、津に残る軍勢への連絡を託された健脚の二人。普通なら、何とか目的を 果たすところですが…ここでは、あっけなく討たれました。 張弥達が気付いた時には、時既に遅し。自らを縛って投降した一部の兵士を除き、ことごとく倒され、首をとられます。 …公孫淵は、はなから、呉に臣従する気はありませんでした。呉が送ってきた使節団と軍勢の人数の規模はいささか想定外 だったとはいえ、その殲滅計画には抜かりはありません。 津に残る軍勢も、警戒はしていましたが、馬の買い付けという役目もある以上、馬市が立つと無視することもできません。 同行してきた商人達を下ろすと…やはり、罠でした。 商人達も飛矢に倒され、将の賀達をはじめ、その殆どが戦死します。生き残れたのは、辛くも津を脱出できたごく一部の者 のみ。 孫権のもくろみは、完全に潰えたのです。先の探索でも、一万の兵の多くは病に倒れ亡くなったといいますから、短期間に 約二万もの兵を失ってしまったのです。 孫権の怒りは凄まじく、復讐戦を行うことは確実と思われました。季節は冬。群臣の気も沈みがちです。 ここで、諫言を呈する者が現れます。薛綜です。 続きます。
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
★『宮城谷三国志』総合スレッド★ http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1035648209/l50