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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
263:左平(仮名) 2010/04/25(日) 21:46:21 ID:???0 [sage ] おっと…今回は4月です。コピペの修正を忘れてました。 続き。 宮城谷作品のファンであれば、「薛」という字に覚えがあるはずです。そう、孟嘗君・田文の領地です。田文の死後、後継者 争いがあり国は滅ぼされましたが、その一族まで消滅したわけではありません。 時が下り、高祖・劉邦が天下を取ったとき、その子孫という兄弟に領地を授けるということになったのですが、二人は互いに 譲り合い、やがて逃げ落ちます。二人は、劉邦への批判者となり、田氏あらため薛氏を名乗るようになります。 薛綜はその子孫の一人です。 「草原の風」では、陰麗華が管仲の子孫と描かれていましたが、こうしてみると、「○○の末裔」というのは、辿ればある ものです。 さて、この薛綜、実はこの少し前まで、孫権の二男・孫慮に付けらていました。若年ながらできのよい孫慮は、幕府を開き、 ある程度の独立した権限を与えられるほどになっていましたが、若くして亡くなったため、中央に戻されていたのです。 即位後の孫権、どうも運に見放されていますね。夷州・亶州の探索、遼東への使節団は自らの失策ですが、できのよい息子 に先立たれるというのは、掛け値なしに悲運です。 孫氏一族のうち、ただ彼のみが長寿に恵まれたのは、果たして幸せなのかどうか。 ともあれ、薛綜の理路整然とした諫言を受け、孫権は、無謀な復讐戦を思いとどまります。 続きます。
264:左平(仮名) 2010/04/25(日) 21:47:14 ID:???0 [sage ] 続き。 諫言自体は、薛綜以外にも、陸遜等、数え切れないほど為されましたが、ひとり、肝心な人物の名がありません、張昭です。 自己嫌悪に陥っている孫権、これにかっときたのか、張昭の屋敷の門外に土を盛ります。「出てくるな」というわけです。 これをみた張昭も負けてはいません。「あの愚かな天子は、このように正言を吐く臣下の口を閉じさせたのだ」と、こちら は門内に土を盛ります。絶対に自らは出ないという意思表示です。 孫権の方が謝り、土を除けますが、内側からの土に阻まれます。意地の張り合いは張昭の方に軍配が上がりました。という か、ここにきて、孫権は、張昭の存在の大きさを思い知らされたのです。 既に、呉という国の基礎は固まっています。以前であれば常識を超えた臣下が必要でしたが、今や、常識を踏み外さない臣 下こそが必要なのです。張昭は、そのために欠かせない人物でした。 ここは、後難を恐れた息子達が張昭を連れ出したことで和解が成立。内心はともあれ、二人の関係は修復されました。 それを示すのは、彼への諡。「文」という、最高の諡号が授けられたのです。 続きます。
265:左平(仮名) 2010/04/25(日) 21:47:45 ID:???0 [sage ] 続き。 ここで、曹丕の名が。父・曹操に「武」という諡号を付けたわけですが、事績を、そして、生前の曹操の言動を鑑みれば、 「文」と付けるべきではなかったか。この点からも、徳が薄いと言われています。 さて、呉の使節団を殲滅し、正使・副使らの首を魏に差し出した公孫淵ですが、使者の復命に疑心暗鬼を生じ、魏の使者に 対し、過剰な警戒を示しました。 このことが、魏への心証を大いに悪くしたわけですが…さて、どうなることやら。
266:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:52:17 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年05月) 今回のタイトルは「流馬」。いよいよ西暦234年。魏と蜀漢との一大決戦の時が近づきつつあります。 …とその前に。この年、山陽公、すなわち後漢最後の皇帝であった献帝・劉協が逝去しました。既に、曹丕の時に、どの ような礼をもってするか決められていたようで、粛々と葬礼が執り行われました。後嗣は嫡孫。劉協の享年が五十四です から、成人していたかどうかは分かりませんが…ともあれ、山陽公の家は、この後も続きます。 この何回かは、主に遼東情勢が書かれていましたが、この間、蜀漢はどうしていたかというと…ひたすら力を蓄えること に専念していたようです。過去の出師は、その多くが兵糧不足のために撤退に追い込まれたことから、三年がかりで充分 な備蓄が為されました。 その一方で、諸葛亮自ら兵の訓練に当たります。第一回の出師の時からすると、将兵とも、見違えるほどの成長を遂げた のです。 第一回の出師の時点では凡将だった諸葛亮が、今回は、将兵を手足の如く動かせる名将と呼ばれるほどになっています。 そして、その成長は、単に自身の能力だけではありません。人材を使うことにも目が向くようになっているのです。 この頃、劉冑なる人物が叛乱を起こします。これまでなら諸葛亮自ら赴くことも考えられたところですが、このことを 知った諸葛亮は、馬忠を遣わすこととしました。 馬忠、字は徳信。もとの姓名は狐篤(狐は母方の姓)。姓名とも変わったという珍しい経歴を持つ人物です。
267:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:53:32 ID:???0 [sage ] 続き。 馬忠が中央に知られたのは、上司の閻芝の命を受け、兵五千を率いて劉備の救援に赴いた時のこと。この時劉備は、黄 権を失ってしまったが狐篤を得たと喜んだといいます(ところで、閻芝はどうだったんでしょう)。 行政官としては叛乱が鎮定されてほどない郡をみごとに治め、将としてもそつのない馬忠は、まさに文武兼備。諸葛亮 にも気に入られ、文武の職を歴任します。 人材の重要性を感じる諸葛亮。それは、馬忠にも当てはまります。この時、馬忠の配下にいたのが、張嶷。若かりし時 の話から、胆力があり武勇に秀でたことがうかがえますが、その軍事的才能には目を見張るものがあります。 別の叛乱の際には、馬忠をして「われがゆくまでもない」と丸投げされてみごと鎮定に成功します。 こうしてみると、蜀漢にも、それなりに人材が出てきていることがうかがえます。戦う体制が整い、魏に勝てるという 確信がある。物語的には、盛り上がる展開です。 いわば満を持した状態で蜀漢が動き始めたことを知った曹叡は、珍しく不安を覚えます。明らかに、これまでと異なる 動きを見せている蜀漢。こたびの戦いの重要性は、双方とも理解しています。 曹叡は、司馬懿に迎撃を命じますが、「急がずともよい」と付け加えます。
268:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:54:26 ID:???0 [sage ] 続き。 当然、司馬懿もそのあたりのことは承知しています。次は充分な兵糧を準備してから動くだろうから…三年ほど後だな、 という見立てはおおむね的中しました。ただ、この間に魏がしたことは、迎撃体制の構築でした。 蜀漢が動くのに応じて…ですから、どうしても受身の形になります。 戦いに赴く司馬懿の目に、鳥の群れが映ります。「往時、鳥は天帝の使いであったな」。この鳥達は何を意味している のでしょうか。それは、まだ分かりません。 互いに経験を積んできた諸葛亮と司馬懿は、戦い方もものの考え方もよく似ていますが、一つ異なる点があります。 「同じ将のもとで兵が成長するか」ということです。 諸葛亮の率いる兵は、街停の頃が幼児なら今は成人というほどに成長しています(例として挙げられているのが呉起や 白起。史上有数の名将の名がここで挙げられています)。一方、司馬懿にはそのような意識はありません。 ただ、そのような例があることは理解しています。 呉の兵は、周瑜が生きていた頃より弱い(策に頼りすぎているため策を破られると弱い)のではないか。蜀漢の兵は、 そのようなことはあるまい。司馬懿にとっても、こたびの戦いの持つ意味は重いのです。
269:左平(仮名) 2010/05/31(月) 00:55:06 ID:???0 [sage ] 続き。 蜀漢の軍勢が停止します。これは、野戦で魏との決戦をしようということか。何のひねりもないだけに、かえってその 意図が読めません。 魏の諸将は、打って出ない蜀漢を嘲笑しますが、この沈黙の故、様々な思索が巡らされます。 ついに、魏軍が動きました。郭淮を北に派遣し万一の事態(西方との交通の遮断)に備えたのです。 この時―蜀漢も動きました。北の郭淮に攻撃を仕掛けたかと思うと、返す刀で東に陣取る司馬懿にも攻めかかってきた のです。 みごとな速攻でしたが、戦況は一進一退となります。ここにきて、魏延がサボタージュをしたためです。 かねがね諸葛亮の指揮に不満を抱いていたとはいえ、なぜ、このような大一番で…。 諸葛亮も一度は激怒しますが、そうはいっても魏延の力なくして勝利はない。というわけかどうかは分かりませんが、 この時、先の天子―献帝―の崩御を諸将に告げます。今や、我らのみが正義の軍である、と。 もちろん、魏延もがぜん張り切ります。 しかし、そんな魏延に露骨な嫌悪感を向ける人物がいました。楊儀です。 諸葛亮の信奉者である彼は、勝手な言動がみられる魏延を罵倒します。一方、諸葛亮は、周公旦の故事から、忠臣の 哀しさを語ります。 大勝負のこの時にこのような話が出るあたり、蜀漢の不安材料なわけですが…。
270:左平(仮名) 2010/07/03(土) 02:35:03 ID:???0 [sage ] 三国志(2010年06月) 今回のタイトルは「満寵」。西で諸葛亮と司馬懿との一大決戦が続く一方、東でも動きがあります。 万全の態勢をもって決戦に臨んだ諸葛亮。魏延のやる気がいまいちなのが気になりますが、将兵の練度、士気、兵糧… どれをとっても負ける要素は見当たらないと確信を持っています。 司馬懿が防戦態勢に入りましたが、最善ではないとはいえ長期戦も望むところ。必ず、魏の方に破綻が生じると余裕を みせます。 そんな中、呉が動き出したとの報告が。一応、呉にも魏への攻撃を要請していたのですが、さしたる驚きもありません。 はなから呉の戦果など期待していないのです。人をあてにすると(公孫淵をあてにした呉のように)失敗する。そう思う 諸葛亮は、今は亡き劉備との出会いを振り返ります。 布衣に過ぎなかったおのれを丞相にまでしてくれた劉備。その劉備もまた一平民から興った。無から有を為した奇蹟。 「われは奇蹟の立会人であったのか」 現実主義者である諸葛亮にも、感傷的になることがあるのです。 一方、魏との戦いに臨むことになった孫権ですが、どうも気乗りがしない様子。蜀漢が兵糧の備蓄に努めた三年間、呉は というと、いたずらに兵力と兵糧を空費(夷州・亶州の探索、公孫淵への使者の派遣は、いずれも一万の軍勢を数ヶ月に わたって運用し、その大半を喪失)していたため、軍を動かすゆとりがなかったのです。 まさに秕政。孫権もその失敗は自覚しているため、蜀漢からの要請に対しても、すぐに兵を出すと言えませんでした。 続きます。
271:左平(仮名) 2010/07/03(土) 02:35:33 ID:???0 [sage ] 続き。 情けない。そう思う孫権ですが、問題はそれだけではありません。どうしても合肥を落とす策が見当たらないのです。 満寵がいまだに南に睨みをきかせている以上、彼に勝たねばならないわけですが、その満寵、いまだ衰えをみせません。 満寵さえいなければ…。孫権以外にもそう思う者はおり、一度は都に召還されます。佳酒を振る舞われますが、大量に 飲んでもその挙止に乱れはなく、衰え無しと判断され、引き続き任にあたることになります(疲れを覚えた満寵が何度 も転任願を出しても、余人をもって代え難しということで、皇帝直々に慰留されます)。 そのため孫権は、十万と号する大軍をもって、かつ、三方から魏領内に侵攻するという、大がかりな作戦を決行します (孫権自身が合肥を攻める軍勢を率います)。 この軍の運用自体はなかなかのものでしたが、何せ相手は百戦錬磨の満寵です。読まれている…どころか、これを逆手 にとって孫権を殺せないか、と奇策(兵力の少ない合肥新城をあえて放棄してさらに侵攻させ挟撃する)を考える余裕 さえあります。 さすがにこれは危険すぎるとして却下されましたが、単に孫権を撃退するだけならそんな策を使うまでもない、という わけですから、戦う前から、呉は劣勢におかれていると言えます。 この時、少なからぬ魏の将兵が休暇中だったので、兵力的な差はかなりのものがあったのですが…。 続きます。
272:左平(仮名) 2010/07/03(土) 02:36:48 ID:???0 [sage ] 続き。 合肥新城、と書きましたが、この城は、満寵自身の献策によって移転したもの。当然、容易には落とせません(だから こそ、あえてそれを放棄するという奇策に対して、曹叡は危険すぎるという判断をしたわけです)。 それゆえ、孫権は大型の攻城兵器を用意させますが、完成までには時間がかかります。そこを、満寵に付け込まれます。 われは張遼将軍には及ばぬが…などと謙遜しつつも、少数の手勢を用いての夜襲はみごと成功。攻城兵器は焼け落ち、 さらに孫権の甥・孫泰をも倒します。 …正直、皇帝の甥がこんな形で戦死というのは、予想外でした。 孫権の怒りは凄まじく、苛烈な攻撃が続きますが、満寵、そして合肥新城の守将・張頴は冷静にこれに対処。そうこう しているうちに曹叡自らが親征を行うとの知らせが入り、さらにそれを裏付ける魏兵(実は先遣隊)の登場に、孫権の 戦意はすっかり喪失。結局、戦果を挙げることなく軍を退くこととなりました。 仏教の庇護者でもある孫権には、独特の諦観とでもいうべきものがあるようです。 西部戦線は司馬懿に任せておけば問題ない。孫権の遠征も、曹叡にしばしの休息を与えただけに終わったと言えるよう です。孫権の軍事的センスのなさも、ここまで来ると相当なもの。満寵は、孫権を殺す機会を失ったのではないか、と 残念がっていますが、案外、これで良かったのかも(ここで孫権が亡くなった場合、孫登がすみやかに帝位を継承した はずですから、後のごたごたもなかったのかも)知れません。 ただ、陸遜・諸葛瑾の軍は、この時点では孫権の撤退を知りません。さて、どうなる…?
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