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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
305:左平(仮名) 2011/03/21(月) 01:22:42 ID:???0 [sage ] 続き。 「あれは、しくじった」 それは、明帝が崩じてから間もなくのこと。遺詔により、宮殿の造営は「休止」されましたが…一応は再開の可能 性がある以上、動員された人夫は帰るに帰れない状態に陥っていました。これを、明確に取り止めさせたのは、何 を隠そう、司馬懿なのです。 明帝は名君でしたが、宮殿造営に熱狂したのは明らかな失策。それが分かっていた司馬懿は、人夫達を帰郷させて 農事に従事させるべきと説き、それが容れられたのです。魏の人々がこれを喜んだのは言うまでもないでしょう。 曹爽は、なるほど実権を握りはしましたが、人心を得る絶好の機会を逸したのです。 このことを悔やんでいた曹羲は、今回の危機を挽回の好機と見ました。それゆえ、兄が出師すべきと説いたのです が…曹爽は、これには乗りませんでした。ここで都を離れれば、司馬懿に実権を奪回される、と恐れたからです。 結局、廟議で結論を出そう、ということになりました。 廟議において、司馬懿は、現在の危機について熱弁を振るいます。かつて樊城は、魏最強の将であった曹忠候(曹 仁)が関羽と激戦を繰り広げた地であることからも分かるように、荊州の要衝です。ここを突破されるようなこと があれば、都・洛陽にまで影響が及ぶ恐れがあるのです。 最初は、何も大傅(司馬懿)おん自らが出られなくても…という雰囲気でしたが、当時の状況を知る者の言葉には 説得力があります。結局、司馬懿自らが出師することに決しました。 続きます。
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