下
★『宮城谷三国志』総合スレッド★
362:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/01/06(金) 01:25:12 ID:???0 [sage ] 続き。 孫権の死を確認した孫弘は、室外の衛士に指示を出すと、直ちに動き出しました。諸葛恪や孫峻に気付かれる前に、孫弘に 都合のよい遺詔をつくらねばならないのです。 しかし、ほどなく、孫峻がやってきました。衛士に阻まれた孫峻が諸葛恪を呼び、兵を引き連れた諸葛恪が衛士を制して中 に入ると…。 孫権の死を知った二人は、孫弘が何をしようとしているかを察しました。ことは、一刻を争います。 孫峻が、諸葛恪が呼んでいる、と孫弘を誘い出し、諸葛恪がこれを斬殺。これにより、一応の決着はついたわけですが、孫 弘もまた、孫権が後事を託した者達の一人であったことを思うと、呉の前途は、決して明るいものとは言えません。 追記。 今回は、諸葛恪・孫峻・孫弘の三人の心理描写が目立ちました。孫権の死を扱った回なのですが、孫権その人については、 あまり触れられていません。これが、彼の偉大さの一端なのでしょうか。 印象的なのは、職務に忠実な衛士達の姿です。孫権の気まぐれのために国政が乱れても、私欲から来る重臣達の権力闘争が あっても、彼らは、ただ自らの職務を果たしています。 諸葛恪が、自らを阻んだ衛士を指して「忠の者だ」と言って殺さなかったことに、わずかな救いが感じられました。
363:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/02/04(土) 02:26:02 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年01月) 今回のタイトルは「太傅」。久しぶりに三国の情勢が語られます。大物達が相次いで亡くなったことで、時代が再び大きく 動こうとしています。 まずは、孫権が崩じた呉から。新帝・孫亮が幼少であることもあり、諸葛恪が巨大な権限を握ったわけですが、冗官を廃し たり税の減免をする等の施策もあって、上々の滑り出しをみせます。 さて、国外に目を転ずると…。魏との戦いは膠着状態とはいえ、やや劣勢。ただ、呉にとって脅威であり続けた王淩は既に 亡く、司馬懿も亡くなりました。この頃、魏の脅威は、やや弱まっていると言えます。 性急なところのある諸葛恪は、魏への牽制とするべく、新たな城を築かせました。 これにいち早く反応したのが、王淩に代わって対呉戦線を所掌することとなった諸葛誕でした。呉に動きありとみた彼は、 すぐさま呉を攻めるべきであると上奏します。 司馬懿亡き後、服喪中ということもあり沈黙を保っていた司馬師は、このことをさほど重視してはいませんでしたが、呉も また服喪中であろうはずのこの時期に動いたことを訝しく思い、彼の意見を採用することとしました。 諸葛誕の他にも、先の戦いで戦果を挙げた王昶達も呉を攻めるべきであると上奏していたこともあり、呉を攻めることに ついては、すんなりと決定しました。わずかに傅嘏が異見を述べましたが、余りにも少数意見。 魏は、この戦いに、十分すぎるほどの大軍を動員しました(諸葛誕・胡遵、毌丘倹、これに王昶)。胡遵は、かつて司馬懿 のもとで堅実な戦いぶりを見せた良将。毌丘倹は、公孫淵を攻めきれなかったとはいえ、その後の高句麗との戦いにおいて 目覚ましい戦果を挙げています。王昶は、数回前に触れられたように諸事にそつのない人物です。万全の体制と言ってよい でしょう。諸葛恪は、いきなり大きすぎるほどの試練に見舞われます。 続きます。
364:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/02/04(土) 02:30:09 ID:???0 [sage ] 続き。 ただし、あまりの大軍ゆえか魏軍に油断がありました。そこを、呉の歴戦の勇将・丁奉が突きます。僅かな兵で敢然と攻撃を 加えると、魏軍は存外あっけなく敗走。諸葛誕・胡遵の軍勢が敗走したと見るや、毌丘倹、王昶はすぐさま撤退。 諸葛恪は、労せずして大勝利を収めました。これにより、彼の呉国内での声望は絶頂に達します。 しかし、この大勝利は丁奉の勇戦によるものであり、諸葛恪には、自分が為したという実感が余りありませんでした。実感の 伴わない大勝利のゆえ、もっと戦果が挙げられたのではないか、という思いが日々強くなっていきます。 そして、ついに、再度の魏との戦いを決します。先の戦いから日も浅く、国内には厭戦気分が濃厚にあったのですが、これを 無視しての強行です。孫峻は、そんな諸葛恪に嫌悪感を抱きますが、ここではどうすることもできません。 もちろん、諸葛恪にしても、単独で魏とあたるのは危険すぎるということくらいは承知していますから、蜀漢との連携を考え ました。使者が、蜀漢に赴きます。 これまで呉と蜀漢とが連携して魏にあたろうと試みたことは何度かあったのですが、いずれもうまくいっていません。蜀漢は その成立の経緯からして、魏とは不倶戴天の仇敵ではあるのですが、諸葛亮の死後の軍事行動はやや控え気味です。呉の要請 があっても、動くかどうかは未知数でした。 諸葛恪に、それをどうするかといった見通しがあったのかは分かりませんが…この時は、うまくいきました。ちょうどこの頃、 蜀漢では一大事が発生していましたのですが、これが大きく影響していたのです。 続きます。
365:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/02/04(土) 02:34:00 ID:???0 [sage ] 続き。 その一大事とは…費禕の急死でした。ただの死ではありません。宮中で殺害されたのです。 超人的な記憶力と事務処理能力を持ちながらも、自らが諸葛亮に及ばないとみていた費禕は、無理な軍事行動は控えました。 その分は内政の重視に向けられ、蜀漢はしばしの休息の時を享受します。 費禕は、蜀漢にとってかけがえのない人物でした。それゆえ、身辺にはご注意いただきたい。名将・張嶷はそう忠告したの ですが…魏の降将に高位を与え宮中に出仕させたことが、仇となりました。 費禕の死により、積極路線の姜維の発言力が強くなりました。費禕と姜維は、ともに諸葛亮を篤く尊敬していたのですが、 その見るところは異なっていました。費禕は、その並外れた政治手腕と公正さに、姜維は、大敵・魏に敢然と立ち向かった 雄姿に、憧れていたのです。 諸葛恪からの使者が蜀漢に至ったのは、ちょうどそんな折のことでした。姜維はこれを承諾し、皇帝・劉禅もこれを是認。 ひとりこれを危惧した張嶷は、諸葛恪のいとこにあたる諸葛瞻に書状を出しました。(父に及ばないことを自覚しているが 故に)誠実なことで知られたいとこの言葉なら、むげには扱わないだろうと見越してのことです。 しかし、皇帝が是認した以上、出師は止められません。 ついに、両国の軍勢が出陣しました。魏の宮中は騒然。司馬師は、またしても大きな決断を迫られることになります。
366:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/02/04(土) 02:39:18 ID:???0 [sage ] 追記。 今回の時点では結末は描かれていませんが、司馬師と諸葛恪の明暗が交錯しているような印象があります。 前半に描かれた戦いでは、司馬師は、十分な兵力をもってすればまあ良かろうとやや軽く考えており、魏軍も、大軍故に 寡兵の丁奉を侮りました。一方、諸葛恪は、彼には珍しく人の意見に耳を傾け、慎重に対応。 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」などと言いますが、一見すると負けるはずのなかった魏があっけ なく敗れたのも、ちゃんと理由があってのことでした。 後半は、逆に、諸葛恪に油断があります。先の戦いでは、なるほど諸葛誕・胡遵を打ち破りはしたものの、毌丘倹、王昶 の軍勢は無傷で撤退しています。ともに実績のある将であることは、これまでの経歴をみれば明らかなわけですから、次 に彼らとあたった時はどうか…と考えておくべきでしょう。 この戦いの結果、両者とも、より強い権力を掌握しています。これの運用次第で、情勢が大きく変動することは自覚して いたでしょうが…さてどうなるか。
367:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 21:52:22 ID:???0 [sage ] 三国志(2012年02月) 今回のタイトルは「敗残」。才子が才に溺れて失敗し、一方で…。 諸葛恪は、二十万と号する大軍をもって合肥を攻めます。蜀漢との連携、十分な軍勢、綿密な偵察。そのあたりの準備は きちんとしていたのですが、一つ、忘れていました。合肥の守将の名を知らなかったのです。 将の名は、張特(字は子産)。名前(字)負けしている感のある彼は、諸葛恪からは愚将であるとばかにされましたが、 味方(もとの上官の諸葛誕)からも愚将呼ばわりされており、危うく罷免されるところでした。 諸葛誕の異動に伴い留任しましたが、合肥という要地を任せるには不安あり。おまけに、合肥の兵はわずか三千。諸葛恪 ならずとも、たやすく落とせそうだ、と思われたことでしょう。 張特自身も、自分一人でこの難局を乗り切れるとは思いませんでした。ただ、満寵によって築かれた合肥新城の堅固さと 味方の援軍を信じ、何とか六十日は持ちこたえようとしたのです。 戦いが始まりました。呉軍は猛攻を仕掛けますが、合肥新城の守りは堅く、いたずらに死傷者が増えるばかり。諸葛恪は いらだちを隠せません。一月経って、ようやく方針転換(土を盛って城壁を無効化する)しますが、将兵の士気は下がる 一方。さらに、軍中に病が発生し、死者はますます増えます。 こうしている間に六十日が経ちましたが、魏の援軍はいまだ来ません。張特は訝しく思います。合肥の重要性を考えると 見殺しにすることはあり得ないし、司馬師が無能だというなら、むしろ慌てて軍勢を動かすと思われるからです。 ともあれ、張特は、なおも防戦を続けねばなりません。呉軍の損失も大きいとはいえ、なお大軍なのです。 ところで、司馬師はどうしていたのか。彼は、側近の虞松の献策を容れ、大胆な、しかし理に叶った用兵を行いました。 続きます。
368:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 21:55:44 ID:???0 [sage ] 続き。 兵法においては、敵の虚を撃つことを重視します。江南を攻める呉と西域を攻める蜀漢とでは、明らかに、前者の方が 魏にとって重要です。いかに大国とはいえ、両面作戦をとることは難しい以上、どちらかを優先させねばなりません。 となれば、より重要な方である前者を優先するのが道理なわけですが、しかしそれ故に、後者には(こちらは後回しに されるに違いない)という予断があります。それこそが、虚。 司馬師は、合肥の救援はしばらく見合わせるよう指示する一方で、西域を任せている郭淮と陳泰に迎撃を命じます。 既に老将というべき年齢になった郭淮ですが、動きは迅速でした。司馬氏には、大きな恩があったからです。彼の妻は 王淩の妹。王淩が謀叛人とされたことから、当然に連座の対象となったわけですが、郭淮は、処罰を承知でこれを奪還 しました(奪還したのは息子達でしたが、郭淮は自らが罪を受ける覚悟であえて送り出したのです)。 司馬懿は、西域における郭淮の存在の大きさに鑑み、あえて法を枉げてこれを許しました。司馬懿からみれば、郭淮を 失うことによる損失と比較した結果の判断でしたが、郭淮にとっては、篤情と映ったのです。 ここでは「非凡には遠い」とされる郭淮ですが、曹操の時代から、長年にわたって西域を無難に統治してきたのは伊達 ではありません。その郭淮が、良将の陳泰とともに迎撃に当たったわけですから、相当の大軍が動いたはずです。 魏の中央は当然に合肥の救援を優先する(ゆえに西域の救援は遅れる。その間に戦果を挙げる)という姜維の目論見は 外れました。出兵したことで呉との約定は果たしたわけですから、戦果が見込めなくなった今、兵を動かす意義はあり ません。姜維は、呉の不甲斐なさを詰りながら、撤退しました。 続きます。
369:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 21:59:36 ID:???0 [sage ] 続き。 姜維が撤退したことで、魏への脅威は、合肥を攻める呉軍に絞られました。しかし、司馬師は、まだ動きません。そう して、開戦から九十日が経過しました。 魏・呉両軍とも、そろそろ限界に近づいていました。そんな中、守将の張特が、諸葛恪に面会を求めてきました。これ は、降伏に違いない。そう思った諸葛恪は、しばらくぶりに上機嫌になります。 張特が刺客になることを怖れた諸葛恪は、それについての用心は怠りませんでしたが…。 魏の法令においては、開戦から百日が経過しても援軍が来なかった場合は、将が降伏しても連座は適用されない。自分 (張特)はもう戦うのをやめようと思うが、納得しない兵もいるので説得したい。そんなことを聞かされた諸葛恪は、 ますます勝利を確信します。 しかし、帰還した張特は自らの勝利を(少なくとも、まだ戦えることを)確信していました。諸葛恪は、自軍の損害の 大きさを隠すのを忘れていたのです。しかも、張特が降伏するものと思い込んだため攻撃が中止されました。この機会 を逃す手はありません。張特は、この間に防備を固めました。 張特にしてやられたことに気付いた諸葛恪は激怒し、攻撃を再開しますが、既に戦意を失っている呉軍には合肥を攻め 落とす力などありません。しかも、ここでついに司馬師が大軍を動かしましたから、もはや手詰まり。 諸葛恪は、撤退を余儀なくされます。 続きます。
370:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 22:02:04 ID:???0 [sage ] 続き。 諦めきれない諸葛恪は、帰還するのをためらい、屯田をしようか、などと言い出します。しかし、その軍は、あくまで 皇帝から授かった国軍であって、諸葛恪が好き勝手に扱ってよいものではありません。 このことを知らされた孫峻は、繰り返し詔勅を出させることで、何とか諸葛恪を帰還させました。しかし、いたずらに 兵を消耗した(大きな会戦はなかったが大敗に等しい)にもかかわらず、諸葛恪は凱旋したかの如く振る舞い、批判的 な人々を遠ざけました。 かつて諸葛恪は、蜀漢に仕えた叔父・諸葛亮は父・諸葛瑾に劣ると言いました。しかし、たとえ形式上のこととはいえ、 諸葛亮は自らの失敗の責を負い降格するということがありましたし、厳格だが公平な政治を行い、蜀漢の人々から畏敬 されました。それができない諸葛恪は、父に劣る、と貶めた叔父にまさると言えるでしょうか。 このような有様を、孫峻は苦々しくみていました。諸葛恪が君臣からの支持を失っていることは明らか。このままでは、 自分も巻き添えを食らう。そうならないためには…。
371:左平(仮名)@投稿 ★ 2012/03/04(日) 22:04:55 ID:???0 [sage ] 追記。 司馬懿、孫権が世を去り、曹操や劉備の時代を知る者は殆どいなくなりました、歴史上は、まだ三国時代の真っただ中 なのですが、一般的な、物語としての三国志の時代は既に去っていると言えます。 それと関係あるのかどうかは分かりませんが、先の卑衍といい、今回の張特といい、普通は目立たない存在の人々に、 見せ場があるように思います。 今回の張特は、三千の兵で二十万の大軍の攻撃を耐え凌いだわけですが、名将、という感じはありませんでした(まあ、 郭淮でさえ「非凡には遠い」という扱いですから、無理もないのですが)。しかし、絶望的な状況にあってなお冷静な 判断を行い、おのが職責を全うしたわけですから、ひとかどの人物ではあるのだろうな…と。 堅実な凡将・張特に敗れた、才子・諸葛恪。そう思うと、何とも劇的な話です。 おっと、今回、ケ艾が登場しました。一言でいうと、寡黙な努力家です(能力面はともかく、彼もまた諸葛恪とは対照 的な存在と言えます)。三国志の後半を彩る名将の一人ですが、その出発点は、下級官吏でした。農政の分野における 優れた見識が司馬懿に認められたことが、後の業績につながっていくわけです。ただ、下級官吏の頃に世話になった人 に謝意を示さなかった(立身する前に謝意を示すのは己を縮めるのでは、と恐れたため。後に、その家族にはきちんと 報いている)ことで、その人格を誤解されたかも知れません。 ケ艾は、司馬師に、諸葛恪の終わりがよろしくないであろうと予見しました。これを、単なる予言としてではなく、自 分への諫言(位人臣を極めた者は慎重に振る舞うべき)である、ととるところに、司馬師の器量が見て取れます。 ただ、司馬懿といい、司馬師といい、どこか、人としても温度が低い、という印象があります。道理においても、人情 においても正しい判断をしてはいるのですが…。いずれ詳しく語られるであろう司馬昭、司馬炎はどうなのでしょうか。
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
★『宮城谷三国志』総合スレッド★ http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1035648209/l50