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★『宮城谷三国志』総合スレッド★
38: 2002/11/02(土) 16:05 ぐっこ 2002年08月12日月曜日 22時19分 あ、もう春秋の発売日…(^_^;) で! とうとう曹操が誕生しましたか〜っ! ということは間もなく梁冀夫妻はその罪業にふさわしい死に様を遂げ、宦官天下が始まる、ということに…! 曹騰の死…私も昔「曹騰伝」なるもの書きかけて(^_^;)、挫折したことあるんですが、この没年は悩みましたよ〜。曹騰を弾劾して却って賞揚された仲コウの三公就任期間から割り出してみたり、イロイロ試しましたが(^_^;) それにしても!檀石槐の活躍とは頼もしい! それに荀爽まで! やっとこさ三国志の連中がチラホラ出て参りましたが…(^_^;) 涼州三明とか董卓もそろそろ出現する頃でしょうけど…。 >茂才・孝廉 うーん、実情はどうなんでしょうねえ…。確かに孝廉の方がよく聞きますよねえ…。手元に史料が無いのでアレなんですが、「州代表」「郡代表」のような単純なモノではなく、確かこの二つの任官先とかって全然別ルートだったはず…。
39: 2002/11/02(土) 16:05 もす 2002年08月13日火曜日 04時46分 ⇒左平さん ご紹介のほど、有難うございます(笑) 左平さんにも何の恩返しも出来ていないで、申し訳ないのですが…(^-^; さて、檀石槐。玉様も好きのようで(^^) ただ、なんとなく「あの男が……」は私のイメージとは違うかも。 「第二の冒頓単于」を目指していたような印象はありますが、漢人を大いに採用したとは・・・ あぁっ、、自分の檀石槐伝を改めて読んで、脱ボーン。。余りにも文体がヘタ過ぎる…書き直したい…(__;) ⇒ぐっこさん 孝廉は「孝と廉」ですね。って、そのままやんけ。 茂才は元々「秀才」でしたね。って当たり前ですがな。 と、それだけでは哀スいので、「任官先」等を調べてみました。ソースは『杜佑通典』。 【後漢光武建武十二年詔】--------------------------------------------------- 三公は 茂才を各一人,廉吏各一人挙げよ 左右将軍は 年に廉吏各二人を察せよ 光禄は 年に郎、茂才、四行各一人を挙げ,廉吏三人を察せよ 中二千石は 年に廉吏各一人を察せよ 廷尉、大司農は 二人(廉吏を察せよ?) 将兵将軍は 年に廉吏各二人を察せよ 監御史、司隸、州牧は 年に茂才各一人を挙げよ --------------------------------------------------------------------------- また、丁鴻と劉方の上言で「郡國は二十萬口につき、年に孝廉一人を挙げる」 となっていますね。凡そ、 ●茂才:三公、光禄、州刺史/牧 ●孝廉:郡太守 といった形でしょうか。(^^)
40: 2002/11/02(土) 16:05 ぐっこ 2002年08月15日木曜日 22時48分 わー、情報ありがとうございます! 私もひさびさに三國志熱が再発したので、史料引っ張り出して確認しました〜。 たぶん「後漢時代の政治と社会」だと思うんですが(コピー史料…)、「孝廉が何故もてはやされたか」みたいな考察がありました。 後漢時代の官吏は、基本200石以上から勅任官に数えられ、それ以下とは地位も権限も懸絶したモノだったらしいです。 さらに600石を越える段階で、こんどは高級官僚、今でいえばキャリアのような扱いを受けるようになり、免税やら徴兵免除やらの特権を与えられるようになったとか。 で、孝廉も茂才も、いきなり郎官(比300石)に任官できるのですが、基本的に茂才が郎官止まりであるのに対し、孝廉はその後も「辟召」の対象としてマークされる名誉に浴していたらしいと。 「辟召」は三公や大将軍クラスの大物が、目を付けた人物を自分の幕府の掾属に推薦し、一挙に昇進させるシステム。 辟召の基準は「孝にすぐれた廉吏」ですから、文字通り孝廉の中から選ばれるのが風習だったらしいです。 というわけで、茂才よりも孝廉が持て囃されたと言うことでした…(^_^;)
41: 2002/11/02(土) 16:38 左平(仮名) ◆梁氏、淪没!&孫文台誕生!(+十常侍) 今回の宮城谷三国志◆ いつまで続くかと思われた梁冀の専横ですが、今回であっけなく終了しました。悪逆の限りを尽くしながら、自身はあっさりと服毒自殺とは…何かすっきりしません。 宦官・単超のてきぱきとした動きは、なかなか見事でした。彼が重く賞されたのは当然です。が!「さして働いていない」のに賞を受けた者の中に、趙忠という名が!…後の「十常侍」の原型が垣間見えます。 雑感: @前回の曹操誕生に続き、今回は孫堅が誕生しました。ただし、「三国志全人名事典」には156年生まれとあるのに対し、ここでは157年生まれとなっており、賊を退治したのも16歳となっています。…『後漢書』ではどうなんでしょうか。 A厠所で梁冀打倒の策を練る桓帝と宦官達…ついつい、「凄まじい形相で便座に腰掛ける桓帝」が思い浮かんでしまいました。シリアスな場面なのに、俺って一体…。 B最愛の女を守りたいが為に梁冀を倒したとさえいえる桓帝。しかし、その女に飽きてしまう…。個人的には、上述の「賞罰を誤った」事以上にがっくりきました。 蛇足:もうすぐ私の誕生日です。隠してても何ですので、近く年齢をカミングアウトします。それと、ネタを一つ発表します。 ヒント:谷利、阪神優勝、干支
42: 2002/11/02(土) 16:38 ぐっこ 2002年09月12日木曜日 00時17分 げ! もう梁冀死んじゃったですか!案外あっさり… この数代クーデター騒ぎが連続して起こってますが、梁冀を倒した連中が最悪だったんですよねー。孫程らとは雲泥の差がある…。 1.あら? 要確認。後漢書には孫堅傳は無いハズなので、ソースが… 2.厠…当時はそこでヱッチができるほど広かったようですね…(^_^;) 服を全部脱いで棗を鼻に詰めてから入るタイプのものもあったとか。そういえばトイレの壺に落ちて溺死した王がいたとか… 3.所詮その程度の人物でしょう…。あんまりパっとしないですよね、桓帝。 むー。干支…? 阪神…1985年…? 谷利…? うーん…28?
43: 2002/11/02(土) 16:38 左平(仮名) 2002年09月12日木曜日 21時00分 私の誕生日は今月の15日(敬老の日!)ですので…現在28。ぐっこさん、正解です!今度29になります。数えではもう30ですが。 私の誕生年は、西暦1973年。丑年です。 1973+12=1985(阪神優勝、丑年) 1985−1800(12×150)=185(丑年) ↑お気づきでしょうか。「谷利伝」で、谷利の生年を185年とした理由が。 実は、私と同じ丑年生まれという設定にしていたのです。 理由としては全く適当でしたが、ここから色々な設定が派生してきて、あの様なスト−リ−となりました。 15で旅立ち、孫策・孫権と出会う。鮑立(鮑隆)との旅。弟との年齢差。玲(孫登の生母という設定)の登場。… 実は、現在書いている「サク(竹+乍)融伝」にも一つ私がらみのネタがあります。それは、また後日。
44: 2002/11/02(土) 16:39 左平(仮名) 2002年09月12日木曜日 21時13分 雑感、自分で書いといて何ですが。 1,孫堅の生年、「資治通鑑」からですかね?「四知」については「資治通鑑」の記述を使われていましたから。 2,厠でエッチ…漢の武帝と衛子夫ですね。トイレに落ちて死んだ王…(春秋の)晋の景公の死因がそうだったとか。
45: 2002/11/02(土) 16:39 ぐっこ 2002年09月16日月曜日 22時27分 当時の風俗とかもじっくり調べたいですねー。 いちおう当時の性風俗については論文書けるくらい精通したのですが(;´Д`)、肝心の生活誌が…。 手持ちは東洋文庫の中国社会風俗史だけですし…
46: 2002/11/02(土) 16:39 ジーク 2002年09月18日水曜日 20時21分 今何故か手元に資治通鑑があったりするのですが、今確認したかぎりではそれらしい記述は見られませんでした......。勿論漢字の上っ面をなでただけ(しかもほんの少し)なので問題外ですが。 所で九月の時点で『やっと』梁翼が死んでくれましたが、今の所予定通り......なんでしたっけ?(^_^;) 黄巾があと三回で始まるようには中々思えなかったりするんですが、一回で十年くらい進めば大丈夫......なのか?(←というかそんなに進むのか) ちょっと心配です。
47: 2002/11/02(土) 16:39 ぐっこ 2002年09月18日水曜日 21時58分 まだ党錮が残ってます(^_^;) 梁冀の死なんぞその前菜。 むう、となると曹操青年の初任官は来年2月くらいか!?
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