★『宮城谷三国志』総合スレッド★
391:左平(仮名)@投稿 ★2012/08/06(月) 02:06:01 ID:???0 [sage ]
三国志(2012年07月)


今回のタイトルは「傅嘏」。毌丘倹の決起の結末はいかに。

前回の時点では、文欽達から最も近いところにいた敵は、南頓にいる王基でした。しかし、戦うよう命ぜられた相手はケ艾。
省25
392:左平(仮名)@投稿 ★2012/08/06(月) 02:07:17 ID:???0 [sage ]
続き。
文俶の戦いぶりは凄まじいものでした。圧倒的な大軍が相手とはいえ、夜が明けきらぬうちの急襲だったことが功を奏し、
司馬師の陣営は大混乱に陥ります。
それだけではありません。この混乱のため、司馬師の体調が一気に悪化したのです。

とはいえ、文俶の手勢は僅かです。夜が明けてケ艾達も合流すれば包囲殲滅される恐れがあります。文俶は、未練を残し
省22
393:左平(仮名)@投稿 ★2012/08/06(月) 02:13:48 ID:???0 [sage ]
続き。
一刻も早く寿春に…と思ったのでしょうが、毌丘倹は、なぜか側近のみを従えて項城を後にしました。いかに漸減していた
とはいえ、まだ相応の軍勢がいたはずなのに、です。
側近のみ、とはいっても、城を出た時点では多数いたのですが、櫛の歯が抜けるように欠けていき、ついには、弟と孫のみ
になりました。いくら勇将とはいえ、これでは、追っ手に捕捉されたらひとたまりもありません。

省20
394:左平(仮名)@投稿 ★2012/08/06(月) 02:18:02 ID:???0 [sage ]
続き。
このとき、傅嘏は、自分が司馬師に出師を強いたばかりに…と自責の念に駆られていました。また、前回も書かれていたよう
に、曹髦の器量に不信感を抱いていました。
それゆえ、彼自身は司馬氏の家臣ではありませんでしたが、司馬昭のために何をすべきか…と思っていました。そんな彼の判
断は、皇帝の命令を無視し、司馬昭が軍を率いたまま洛陽に向かう(洛陽近郊で停止し威圧する)、というものでした。

省19
395:左平(仮名)@投稿 ★2012/09/04(火) 03:19:50 ID:???0 [sage ]
三国志(2012年08月)


今回のタイトルは「蛇足」。前回、呉・蜀漢に動きあり、というように書かれていました。このタイトルとの関連は…?

まずは、呉から。孫権には七人の男子がいたわけですが、特にできのよかった上の二人(誠実な努力の人であった孫登、
省22
396:左平(仮名)@投稿 ★2012/09/04(火) 03:21:38 ID:???0 [sage ]
続き。

孫峻打倒計画は、これだけではありませんでした。蜀漢の使者が来訪する折を狙って…というものでしたが、これも失敗。
才智においては諸葛恪に劣る孫峻ですが、身の危険を察知することには長けていたようです。
これらの計画は、特に関連はなかったようですが、孫峻は、皇帝・孫亮を疑うようになっていきます(賢さを顕示しない
という賢さがある、とみて警戒したのです)。
省20
397:左平(仮名)@投稿 ★2012/09/04(火) 03:23:35 ID:???0 [sage ]
続き。

魏にとっては最悪の展開です。王経は、迎え撃つ側であるにもかかわらず、不利な地に布陣してしまったのです。速戦を
好む姜維にとっては、願ってもない状況。あっさりと打ち破りました。魏軍は川に追い落とされ、甚大な損害を蒙ります。
辛うじて狄道に逃げ込んだ王経。なお一万の兵を擁するとはいえ、城は包囲され、兵糧は僅か。絶体絶命と思われました。
姜維がさらに攻勢に出ようとするのも無理からぬところ。張翼が「蛇足である」と諌めますが、聞くはずもありません。
省21
398:左平(仮名)@投稿 ★2012/09/04(火) 03:26:23 ID:???0 [sage ]
続き。

奇襲ではなくなりましたが、蜀漢軍からすれば、いつの間に、という状況には違いありません。城を包囲する兵を残しつつ、
新たな敵軍を迎え撃つというのは、相当な余裕がなければ不可能です。陳泰は、負けるはずがない、と余裕綽々で臨みます。
蜀漢軍は精強ですが、状況が状況ですし、魏軍も十分に精強です。しばらく一進一退の状態が続きましたが、やがて、蜀漢
軍の方が引いていきました。
省27
399:左平(仮名)@投稿 ★2012/10/08(月) 06:31:34 ID:???0 [sage ]
三国志(2012年09月)


今回のタイトルは「緩急」。ちょっとした差が運命を分かつ…といったところでしょうか。

胡済の軍を待った姜維でしたが、なかなか来ません。この時、姜維が率いていたのは「軽兵」。普通は軽装の兵、という
省24
400:左平(仮名)@投稿 ★2012/10/08(月) 06:33:14 ID:???0 [sage ]
続き。

魏は、既に司馬昭が実権を掌握しており(特に軍事面においては、独断で兵を動かすことさえ可能)、高官達も、その
ことを概ねよしとしていました。孟子の教えによれば、曹氏<司馬氏なのであれば司馬氏の世になってもよい、という
わけですから、高官達が司馬昭に媚びへつらっているわけではないのです。
事実、当時の高官の多くは、人格識見とも世に優れた人達が任じられていました。しかし、それが全てではありません。
省19
1-AA