★『宮城谷三国志』総合スレッド★
396:左平(仮名)@投稿 ★2012/09/04(火) 03:21:38 ID:???0 [sage ] AAS
続き。

孫峻打倒計画は、これだけではありませんでした。蜀漢の使者が来訪する折を狙って…というものでしたが、これも失敗。
才智においては諸葛恪に劣る孫峻ですが、身の危険を察知することには長けていたようです。
これらの計画は、特に関連はなかったようですが、孫峻は、皇帝・孫亮を疑うようになっていきます(賢さを顕示しない
という賢さがある、とみて警戒したのです)。
そんな中、敵地に城を築くと宣言。わずかに滕胤が諫言したものの、孫峻は聞く耳を持ちません。今回の時点においては
大きな動きはないようですが、孫峻に、いわゆる死亡フラグが…?

一方、蜀漢の方は、というと…。費禕の死後、毎年のように兵を動かしていた姜維が、またしても動こうとしていました。
毌丘倹の決起をみて、魏の西方の備えが手薄になっているのではないか、と判断したのです。さすがに国力の疲弊を危惧
した張翼が諫めたのですが、姜維はこれを無視。強引に出兵を決めます。
 ただし、この出師には張翼も同行しています。劉備の時代から仕えてきた老将の存在は、なかなか大きいのです。
 また、夏侯覇の名もあります。
これを迎え撃つのは、雍州刺史であった王経。教養も気骨もある好人物ですが、軍事的手腕については、ちょっと…という
ところ。西方の軍事を統括する陳泰に急報を送ったのはいいとして、情報が整理されていませんでした。
陳泰は、情報が錯綜していることを見抜き、速やかに指示を下します。その指示は的確なものだったのですが、通信手段が
限られている時代です。王経は、その指示に従わず(指示が届く前に)動いていました。

続きます。
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