★『宮城谷三国志』総合スレッド★
399:左平(仮名)@投稿 ★2012/10/08(月) 06:31:34 ID:???0 [sage ]
三国志(2012年09月)


今回のタイトルは「緩急」。ちょっとした差が運命を分かつ…といったところでしょうか。

胡済の軍を待った姜維でしたが、なかなか来ません。この時、姜維が率いていたのは「軽兵」。普通は軽装の兵、という
ことなのですが、先に狄道を包囲した際に攻城兵器がなかったと思われるため、「大型兵器を持たない兵」という含みも
あったのではないか、とのこと(となれば、それを補うことを期待された胡済の軍には大型兵器があった→当然ながら行
軍は遅くなる)。
結局、胡済の軍との合流がならないままにケ艾と正面から戦うはめになり、大敗を喫しました。段谷の戦いです。
相手方に地の利があり、かつ、名将のケ艾が相手となれば、仮に合流が成ったとしても難しかったかも知れませんが…。

この敗戦は、単なる負け戦に留まりませんでした。せっかく服属させた西方諸族が、蜀漢から離反してしまったのです。
精兵も多く失ったため、蜀漢の軍事力は、大幅に低下することに。さすがに堪えたのか、姜維は、かつての諸葛亮に倣い
自ら降格を申し出ました(といっても実務上の権限はほぼそのままですが)。
もっとも、そういうことがあっても、姜維の戦好きは収まりません。これには、張翼も苦言を呈しますが、相変わらず、
聞く耳を持ちません(それでもなお、不思議と張翼を遠ざけなかったのですが)。

蜀漢は、こんな具合。直ちに滅亡には至らないにしてもジリ貧といった感じがあります。相変わらず劉禅の影が薄いです。
では、幼帝・孫亮を戴く呉は、どうなのでしょうか。

この頃、孫峻は、魏から亡命した文欽の言うことに耳を傾けていました。魏に付け入る隙あらば、というわけですが…。

続きます。
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