★『宮城谷三国志』総合スレッド★
404:左平(仮名)@投稿 ★2012/11/08(木) 05:31:15 ID:???0 [sage ]
続き。

それにしても、諸葛誕といえば、魏の征東大将軍。相当な高位にあります。それが、何ゆえ叛旗を翻したのでしょうか。

…諸葛誕は、司馬氏を恐れていました。彼自身に咎が及んだことはないのですが、先に司馬氏によって消された曹爽達とは
親しく付き合っていたため、いつか自分にも…と危惧していたのです。
省18
405:左平(仮名)@投稿 ★2012/11/08(木) 05:33:38 ID:???0 [sage ]
続き。

しかし、諸葛誕の本気をみた呉の動きは早かったのですが、魏の動きも相当に早いものでした。荊州には、何事にもそつの
ない王基がいます。彼が、寿春の異変に気付かないはずもありません。中央に出撃を乞うや否や、直ちに兵を率いて寿春の
近郊に至り、包囲網を敷いていきます。

省20
406:左平(仮名)@投稿 ★2012/11/08(木) 05:35:58 ID:???0 [sage ]
続き。

孫壱を取り逃がしたことでケチが付いたのか、これまで魏相手によく戦っていた朱異が連敗しました。十分な兵力を擁し、
兵の士気も決して低くなかったのに、です(朱異自身、なぜ負けるのか分からない、という感じです)。

これに取り乱さないところはさすが、といったところですが、魏軍が相当に手ごわいということが分かった以上、うかつ
省15
407:左平(仮名)@投稿 ★2012/11/08(木) 05:41:36 ID:???0 [sage ]
追記。

初動は素早かった孫綝でしたが、結局、事態を悪化させただけでした。諸葛誕も、まさか、呉(というか孫綝)がここまで
役立たずだとは思わなかったでしょう。独力で戦った方がましだったのでは?とさえ思えます。

しかし、孫峻といい孫綝といい、戦いにおいてはどうしようもないくらいに無能なのに、宮廷内の権力闘争においてはなか
省12
408:左平(仮名)@投稿 ★2012/12/02(日) 22:57:43 ID:???0 [sage ]
三国志(2012年11月)


今回のタイトルは「全氏」。呉の名門・全氏に、一体何が…。

寿春の城内では、諸葛誕の部将である蒋班・焦彝が、朱異の死と孫綝の撤退を知り、ある献策をしようとしました。
省25
409:左平(仮名)@投稿 ★2012/12/02(日) 22:59:46 ID:???0 [sage ]
続き。

諸葛誕の部将、それも、副将ともいうべき二人が降る、という知らせを受けた司馬昭は、これを受諾。二人は機をうかがい、
降ることに成功しました。
司馬昭からすると、労せずして諸葛誕の戦力を削ぐことができたわけですが、さらに大きな知らせが舞い込んできました。
全輝・全儀の兄弟が、魏に亡命してきたというのです。
省20
410:左平(仮名)@投稿 ★2012/12/02(日) 23:01:50 ID:???0 [sage ]
続き。

城内の全懌達に、魏に降るよう説得してもらいたい、というのです。
全jの死後、家督を継いだ全懌が魏に降るとなれば、その影響は計り知れないものがあります。将兵の犠牲を減らすのに、
これほどの策はそうそうないでしょう。

省20
411:左平(仮名)@投稿 ★2012/12/02(日) 23:03:56 ID:???0 [sage ]
続き。

全懌は、ついに、魏に降ることを決意しました。息子達や、従兄弟の全端も、ともに亡命します。
しかし、自分たちだけが城外に出るのでは、置き去りにされた兵がどうなるかわかりません。全懌は、兵達と一緒に、
城外に出ました(もちろん、司馬昭に事前承認を得た上で、です)。

省15
412:左平(仮名)@投稿 ★2012/12/02(日) 23:05:00 ID:???0 [sage ]
追記。
全j以外の全氏は、ゲーム等では、目も当てられないような低数値にされがちですが、今回の全懌は、父の全jや
兄の全緒にも見劣りしない人物として描かれていたように思います。
数千の兵の命を守るため、あえて難しい方法を選んだ全懌の行動は、見事なものでした。
寛容をもって接した司馬昭の勝利と言えるでしょう(それだけに、諸葛誕の決起の遠因となった曹爽派の処断には
すっきりしないものを感じるのですが)。
省10
413:左平(仮名)@投稿 ★2013/01/01(火) 00:22:54 ID:???0 [sage ]
今回は三国志は休載でした(文藝春秋の90周年特別号、ということです)。
1-AA