★『宮城谷三国志』総合スレッド★
62:左平(仮名)2003/01/11(土) 01:19
今日は、ちょっと残業してました。帰ってから食事をとって風呂に入ってたら…「りゅうぜんず」さんの方が、先に紹介なさってました。
63:★ぐっこ2003/01/13(月) 12:01
とうとう二次党錮がはじまりましたかー!
…って連載始まってどれほどの時間が経過したのか(^_^;) いまだに三国志の
カケラもない…。

「先代の英雄」たちがあらかた舞台を去って、ようやく曹操達にスポットライトが
回ってくる様子。楽しみ〜。
64:左平(仮名)2003/02/10(月) 22:42
◆若き曹操(たち) 今回の宮城谷三国志◆

今回、だいぶ三国志らしい感じになってます。曹操、孫堅、劉備の三英傑は言うに及ばず、袁氏、盧植、公孫サン【王+贊】、さらには司馬懿の名も。といっても、物語はまだ黄巾の乱以前ですが。

少年・曹操は、橋玄に認められます。その上で、許子将に評されて、世に名を知られるわけです。このあたりは有名ですが…。
さすがは宮城谷氏です。意外な盲点を指摘されています。
省15
65:★ぐっこ2003/02/13(木) 01:37
むう、ようやく三国志(;^_^A
やや…今日はちょっと眠いので寝ますが…許劭と曹操の年齢差なんか
考えたこと無かった! んー…でも、曹操が少年時代の頃から月旦じみた
ことやってるはずだし…案外、当時のアウトローだったのかな?
橋玄も含めて、調査せねば…

省7
66:左平(仮名)2003/03/11(火) 00:00
◆怪異・妖異、失脚・失脚、蒼天・黄天 今回の宮城谷三国志◆

今回は、郷里にこもった曹操のつぶやきから始まります。

宮中付近で次々と起こる怪異現象。それは、五行相勝説から見ても五行相生説から見ても、ともに漢の終焉を予感させるにふさわしい代物。蔡ヨウ【巛+邑】の決死の諌言も、愚昧な霊帝の、認識の甘さの前には、効果なしです(密封された上書を読んでるのを宦官に後ろから見られてるってのは…密封した意味がない!)
蔡ヨウ【巛+邑】の亡命生活が十二年にも及んだって事は…彼が中央に復帰したのは、董卓が権力を掌握してからという事ですか。と、なると、董卓の考えはどこにあったか、というのも気になりますが…まぁ、それはまた後の話。
省15
67:★ぐっこ2003/03/13(木) 23:10
ああもう!はやく文庫本にならないのか!(←ハードカバーは?)
連載始まって二年ちかくなりますが、やっとこさ三国志演義のスタート
地点に…。
楊震にはじまった物語は、さて誰で終結するのやら…

宮城谷氏は存外キャラの最後をサクッと端折ることが多いので、どの人物
省7
68:左平(仮名)2003/04/10(木) 23:42
◆黄巾の乱 途中経過? 今回の宮城谷三国志◆

今回、遂に黄巾の乱が勃発します。このあたりの経過は、比較的淡々と書かれています。ただ、最初に「潁川郡は賢者を生む」みたいな事も書かれているのは、後につながるのではないでしょうか。

それはそうと、ちょっと驚く事が。
黄巾の乱の鎮定には劉備も加わっていた様で、曹操や孫堅ほどの目立った活躍はしていないのはまぁ承知しております。しかし、「劉備が関羽・張飛を左右に従える様になったのは黄巾の賊の蜂起から四年ほど後とみるのが無難である」とは!!上記の文章は、立ち読みの流し読みであるだけに多少の誤記はあるにしても、初耳です。宮城谷氏の事ですから、しかるべき資料があるのでしょうが…一体何にそういう記事が…。
省8
69:★ぐっこ2003/04/11(金) 00:45
やや、もう文春の頃ですか〜!

といいますか、劉備が関羽・張飛を左右に従える
様になったのは黄巾の賊の蜂起から四年ほど後
とみるのが無難である
わたしもコレ初耳ですわ! 当然、それなりの根拠ないし考察を経ての
省11
70:左平(仮名)2003/04/11(金) 23:22
いや、董卓の存在が重いというのは、私の見る目の偏りもあるのかと思います。現在、「牛氏」を書いてて多分に意識しているところですので。
とはいえ、「それゆえかれは戦場へはいそがない」ってな書かれ方をするあたり、どうなのでしょうか。

割とさらりと書いてる様でも、よく読むと、やはりしっかりと書かれているのが分かります。張角は天を祀り(事実上)皇帝を自称したとか、波才対皇甫嵩・曹操の戦いにおける猛火を指して「これほど幻想的な戦場はない」という様に表現したり。

そういえば、今週の蒼天で、後姿で描かれた半裸の男って、ひょっとして張角ですか?
71:もす2003/04/13(日) 04:04
>劉備が関羽・張飛を左右に従え…

えっと、ちょっくら調べたところ、それらしいモノが。
いや、それらしいとしか言えないんですが。(^^;

黄巾が蜂起したのが中平元年、184年のこと。
省12
1-AA