★『宮城谷三国志』総合スレッド★
86:左平(仮名)2003/06/11(水) 00:08
おっと、今回はぐっこさんの方がお先に読まれましたか。
残念、今日は遅くなったもので文藝春秋は見てないです。明日以降、確認します。
87:左平(仮名)2003/06/11(水) 21:55
一日遅れで、ようやく確認。確かに、将達がかっこいいです。
とはいえ、今回最も描かれていたのはやはり董卓でしょう(張温は凡将。孫堅は戦力に恵まれず、今回はいまひとつ目立たない【とはいえ、その力量は既に光っています】。陶謙は、武人らしい偏屈さの故に自らの器を縮めている…)。
不思議なもので、負けない戦をする董卓なのに、私にはなお「智謀の人」というイメ−ジはしないのです(いや、良将というイメ−ジはあるのですが)。やはり勝手知ったる羌族との戦いという事もあるのでしょうか。

それにしても、皇甫嵩の将器を活用できない漢朝は、やはりあきません。後々の事を考えると、なおさらです。

省7
88:★ぐっこ2003/06/11(水) 22:32
やはり萌えたのは張燕の登場でしょうな!飛燕カコイイ!

董卓は、正直猛将というより知将、謀将の印象が最近強い私であります。
洛陽で失政やらかすまでの彼の動きは、非常にクレバーではないかと。
というか、もし彼が李儒あたりの献策で動いていたとすれば、李儒って
郭嘉なみに先見のある軍師な気が。
89:左平(仮名)2003/07/11(金) 00:26
◆その頃各地は 今回の宮城谷三国志◆

今回は、各地の様子とその中で動く群雄候補達が語られています。中央においては、霊帝は相変わらず銭の亡者ですが、各地は激動の中にあります。
西では「戦国の名将・趙奢の、そして伏波将軍・馬援の子孫」馬騰が蜂起。羌族の女を母とする彼にとって、漢朝は二重の意味で憎むべき存在(羌族を虐げ、馬氏を軽んじた)。
北では張純が丘力居と組んで蜂起。その鎮圧に加わるべく、劉備は旗揚げします。時に劉備二十八歳、関羽二十九歳(!)、張飛十六歳(!)。
南では区星が蜂起。それを孫堅が鎮圧。
省14
90:★ぐっこ2003/07/18(金) 23:27
ようやく読みましたぜ〜!

三国志レギュラーもそろい踏みで、地方の反徒どもも元気良くて。
それにしても、まだ一人称的な視点を持つキャラクターが一人も
登場してないので、誰が主役か解らない物語ですが…

省14
91:左平(仮名)2003/08/11(月) 21:50
今回は、いきなり陰謀から始まります。合肥侯擁立未遂事件です。その一員には、あの陳蕃の子・陳逸の名も。曹操も誘われますが、拒否しています。
…ちくまの和訳では、この合肥侯は劉氏の一人であろうとしているのですが、宮城谷氏は違うと断言しています(後漢建国の功臣の一人の子孫らしいのですが、まだきちんと読んでなくて…)。
はて?後漢書を確認しないと。

西に目を向けると、王国・韓遂の乱が続いています。自らの勢力を涵養せんとする董卓が気乗り薄な中、皇甫嵩は敢然と戦い、みごと勝利。この後、二人の関係は悪化するそうで(まぁ、董卓からすれば面目を潰されたわけですから無理もありません)。
アサハルさんがまた喜びそうな?描かれ方です。
省13
92:左平(仮名)2003/08/11(月) 22:14
中央研究院で後漢書をチェックしました。確か「堅」って姓だった様な…で探しましたら、ありました。
後漢書/列傳/卷二十二 朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二/堅鐔というのが。
「(建武)六年,定封合肥侯.二十六年,卒.子鴻嗣.鴻卒,子浮嗣.浮卒,子雅嗣.」とあります。
しかし、そうなると、このク−デタ−未遂って、かなりのものでは…。もし事実なら、えらい事です。
93:★ぐっこ2003/08/13(水) 20:18
ほう!ようやく劉宏崩御ですか!や――――っとこさ、馴染みのある三国志になった
カンジですな!
実際、皇甫嵩ほか何人かの良将だけが気を吐いていた時代でしたよねえ…。
もうすでに半独立勢力じみていた董卓の兵団しかり、退廃的で自滅したとしか思えない
後漢王朝末期のドロドロした雰囲気が解るような気がします。
そんな中で、袁紹や袁術がどのような役割を果たしてゆくのか、いよいよ楽しみなカンジ。
省15
94:★ぐっこ2003/08/29(金) 00:26
ぐあ、書くの忘れてましたが、

何顒先輩カコイイ!

で宜しいか諸兄?
95:左平(仮名)2003/09/10(水) 22:53
今回は、遂に!です。ただし、まだその事件の前半部といったところ。

宦官勢力の殲滅を叫ぶ袁紹、それに反対する家族(といっても血のつながりはない)との間で揺れ動く大将軍・何進。父・真の死後、血縁という意味では孤独の中にいる彼は、博愛精神の持ち主として描かれています。いわゆる「いいひと」ですね。しかし、それと器の大きさとはまた別物。機能していない朝廷に愚直に仕えた皇甫嵩もそうですが、「産まれた時代が悪かった」としか言い様がないです。
一方、袁紹は、危険を承知の上敢えて董卓を招こうとします。圧倒的な軍事力をもって何太后を威圧しようとしたわけです。
しかし、こうしてみると、皇太后の無知と無理解が悲劇を招いているというわけで…。外戚の専横(その結果として王莽による新朝成立)という苦い経験を経て成立したはずの後漢がそれに対しての備えを怠っていたという点で、光武帝の限界が指摘されます。

省8
1-AA