★『宮城谷三国志』総合スレッド★
225:左平(仮名)2009/01/24(土) 00:45:51 ID:ySonixWe
三国志(2009年01月)

今回のタイトルは「白帝」。西暦222年(ラスト付近は223年ですが)の情勢です。

関羽の仇を…という戦いなわけですから、呉の内憂たる異民族(ここでは五谿蛮)の協力は、ないよりあった方がいい
…ってなわけで、馬良がその使者となり、無事成功します。
省25
226:左平(仮名)2009/01/24(土) 00:48:14 ID:ySonixWe
続き。
(個人的な感想ですけど)確かに鮮やかな勝利ではあるのですが、本作での陸遜は、余りぱっとしないように思えました。
火をもって大軍を壊滅させたわけですが、長社の戦いの時の皇甫嵩や赤壁の戦いの時の周瑜のような鮮やかさがどうも感
じられないのです。
魏が出てくるであろうことは予測しており、迎撃の算段も立ってはいるようですが、さらにその先は、となるとどうなの
でしょうか。
省21
227:左平(仮名)2009/02/22(日) 17:41:04 ID:qOqvofCv0
三国志(2009年02月)

今回のタイトルは「劉備」。とはいえ、前半は、魏vs呉の戦いの続きです。

戦いは、やや魏有利に進んでいます。とはいえ、長江をまたいでの戦いということもあってか、戦線が何方面かに分散して
いるためもあってか、そうそう目を見張るような派手な会戦があるというわけではありません。
省29
228:左平(仮名)2009/02/22(日) 17:43:48 ID:qOqvofCv0
続き。

さて…場面変わって、永安。一応戦いは済んだのですから、皇帝たる劉備は首都・成都に帰るべきところですが、そう
しないまま、病に臥します。
復讐戦も成らず、もはや、すみやかに冥府に行くことのみを願うという有様。ですが、皇帝として、せねばならぬことが
あります。後事をいかにするか、ということです。
省17
229:左平(仮名)2009/03/22(日) 00:57:07 ID:+yelLx660
三国志(2009年03月)

今回のタイトルは「使者」。主に蜀漢と呉の修交の経緯が描かれます。

劉備が崩じ、嫡子の劉禅が跡を継ぎました。しかし、当年十七の、かつ、実績のない幼弱の新帝を戴く弱小国、となると、
その前途には厳しいものがあります。
省32
230:左平(仮名)2009/03/22(日) 00:59:15 ID:+yelLx660
続き。

さて、ケ芝には、もう一つの使命がありました。張裔なる人物を探し出し、帰国させることです。
ケ芝の知る限りでは、彼は「益州南部で叛乱を起こした雍闓に捕らえられ、呉に送られた」冴えない人物に過ぎません。
また、孫権の認識も、似たようなものでした(実際、軍事的手腕については実績らしいものはありませんしね)。
彼の帰国は特に支障なく行われると思われたのですが…帰国前の会見で、その才幹の一端が漏れました。そのために、
省18
231:左平(仮名)2009/04/25(土) 02:53:37 ID:FJO82zTv0
三国志(2009年04月)

今回のタイトルは「南中」。諸葛亮が動き始めます。が…その前に、曹丕の、再度の親征です。

人からすれば思いつきのようでも、曹丕としては、それなりに考えての親征。しかし、君臣の心が一致しているとは
言えない現状では、どれだけの意味があるのか(表立って反対意見を述べたのは劉曄くらいですが…)。
省27
232:左平(仮名)2009/04/25(土) 02:55:25 ID:FJO82zTv0
続き。

瀕死の夏侯尚を見舞った後、曹丕は、「それだけの男であったのか」と呟きます。不思議と、ここの書かれ方は淡々と
していますが、それだけに、人情というものを解さない曹丕の寒々とした感覚が感じられます。
…どうして、曹丕には、こうも眉をひそめたくなるような話しかないのか。これでどうして『文』帝なのか。建国から
まだ数年。清々しいはずのこの時期において、早くも不快感があります。王朝は、しばしば、初代の帝王の性格に影響
省21
233:左平(仮名)2009/05/24(日) 01:23:54 ID:85J6nSxv0
三国志(2009年05月)

今回のタイトルは「曹丕」。本作において個人名をタイトルにする場合、初登場か何らかの見せ場が、というところなの
ですが、「曹操」「劉備」と続くと、なんというか…。

今回は、まず、鮑について描かれます。前にもあったように、曹丕の不興を買い、しばし遠ざけられていた鮑ですが、
省26
234:左平(仮名)2009/05/24(日) 01:25:16 ID:85J6nSxv0
続き。
その事態は、極めて急に起こりました。鮑の処刑からほどなく、曹丕が崩じたのです。
病に臥してから一月足らず。当年齢四十の壮年で、武芸にも長け、持病もない彼の急逝は、当然ながら、波紋を投げかけ
ました(春秋の筆法で言えば、鮑を殺した報い、ということでしょうか)。
幸い、まだ意識がはっきりしている間に立太子は為されましたので、この点は良かったのですが、太子に曹叡が選ばれた
ことには、群臣達に多少の驚きがありました。先の、とつくとはいえ、皇后との間に生まれた嫡長子。なんの問題もなさ
省24
1-AA