★『宮城谷三国志』総合スレッド★
239:左平(仮名)2009/08/23(日) 01:37:07 ID:bq1phsVL0
三国志(2009年08月)


またしても迂闊なことを。馬謖の名をを書き間違えてしまうとは。気を取り直して。

今回のタイトルは「街亭」。まあ、第一次北伐とくると、この名前は当然出てくるところですね。
省32
240:左平(仮名)2009/08/23(日) 01:39:56 ID:bq1phsVL0
続き。
同じ敗戦でも、趙雲のそれがそう思わせないほどにみごとなものであったのに対し、馬謖のそれは、甚だ無様な
ものとなりました。
副将の王平がまっとうな行動をとっているだけに、「策士、策に溺れる」を地でいく馬謖の判断ミスが余計に
目立つのです。

省23
241:左平(仮名)2009/09/26(土) 03:04:24 ID:sq1CW+Zq0
三国志(2009年09月)

今回のタイトルは「曹休」。姜維についての記述はないのですが、第一次北伐の余談、とでもいうべき話から
始まります。

かつて張既に託された、游殷の遺児・游楚。立派に成長し、太守となった彼のもとに、蜀漢軍の侵攻の知らせ
省26
242:左平(仮名)2009/09/26(土) 03:05:46 ID:sq1CW+Zq0
続き。

ここで白羽の矢が立ったのは、前線にいない鄱陽太守・周魴です(前線の太守が策をめぐらしても警戒されて
いるため難しい、との判断)。山越等の賊との戦いの経験もあり、なかなか優秀な人物ではありますが、これ
はいかに言っても困難な使命です。
何度も策を練っては却下され、ついには問責の使者が来て、剃髪して詫びるということも(演義では、曹休を
省23
243:左平(仮名)2009/10/25(日) 22:42:15 ID:5TLCoJWz0
三国志(2009年10月)

今回のタイトルは「陳倉」。曹操等には及ばぬまでも、諸葛亮の軍事手腕に一定の成長が見られます。

まずは前回の続きから。曹休の敗退を知った賈逵は、彼が向かうであろう夾石に軍を進めることにします。そこ
には、撤退する曹休を待ち構える呉軍がいましたが、賈逵はこれを難なく蹴散らし、無事、曹休と合流すること
省24
244:左平(仮名)2009/10/25(日) 22:45:04 ID:5TLCoJWz0
続き。

一方、勝利した呉ですが、こたびの戦の功労者である陸遜・周魴は篤く賞されます。それはよいのですが…ここに
呉の限界があります(後世の、人気がない原因でもあるような)。
詐術を弄して勝つということは、「敵には何をしてもよい」と考えているわけです。それは、一見正しいようですが、
そこには、人を引き付けるものがありません。人々を引き付けないことには最後の勝利は得られません。
省21
245:左平(仮名)2009/10/25(日) 22:47:11 ID:5TLCoJWz0
続き。

文章量からすると、やや少なく感じるくらいの陳倉の戦いですが、その中身はなかなか濃いものがあります。攻城
兵器(雲梯、衝車等)の投入、二重城壁、地下道での攻防…。
ただ、郝昭の勇戦は確かですが、ここでは、戦場における諸葛亮の鈍さが強調されているように見えます。

省17
246:左平(仮名)2009/11/28(土) 15:52:23 ID:A/4303W/0
三国志(2009年11月)

今回のタイトルは「三帝」。名実ともに、三国の時代となります。

まずは、孫権の皇帝即位を知った蜀漢の反応及び対応が語られます。漢の正統を自任する蜀漢としては、孫権の
皇帝即位は到底是認できないものではあるのですが…ここは、丞相・諸葛亮の現実的判断に従うこととなります。
省22
247:左平(仮名)2009/11/28(土) 15:53:41 ID:A/4303W/0
続き。

この祝賀の席で、(かつて対立した)周瑜を賞賛しようとした張昭にちくりと皮肉を言ったり、それに衝撃を
受けた張昭が引退を願い出ると引き留めたりと、孫権、家臣に対しても容易に腹の内を見せません。
諸葛亮と孫権。ともに優秀な為政者には違いないのですが、この差は何なのか。

省26
248:左平(仮名)2009/11/28(土) 15:55:30 ID:A/4303W/0
続き。

そうこうしているうちに、西暦230年。この年、魏は本格的な軍事行動を起こそうとします。蜀漢が対魏戦の
準備を着々と進めていると知った曹真が、機先を制してこれを討つことを考えたのです。

彼我の国力差を考えると、孫資の言うとおり、魏から無理に戦いを仕掛けずともよいのですが、今や魏軍の重鎮
省16
1-AA